鎌倉公方足利家の重宝

鐺通し新藤五

 

 

 

 

 

 鎌倉公方足利家の重宝である、脇差・鐺通し新藤五国光(こじりとおし しんとうご くにみつ)について考察する。

 

 名物・鐺通し(小尻通とも)新藤五は、天正19年(1591年)37日付書状によると、古河公方足利家の氏姫から豊臣秀吉に献上された脇差である。足利氏姫は秀吉の命により喜連川(足利)国朝と婚姻したが、ほとんどの期間を古河で過ごしていた人物である。この前年に知行を与えられたので、それに対する秀吉への答礼として献上された。

 以下の1から6に分ける。

 

1、刀工・新藤五国光について

 

2、さくら市ミュージアム企画展 第107回「鎌倉公方足利氏の至宝 喜連川家文書」・栗形、笄について

 

3史料「豊臣秀吉朱印状並覚」について

 

4、鐺通し新藤五の来歴

 

5、掲載史料

 

6、まとめ

 

 

 

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1、刀工・新藤五国光について

 鎌倉公方足利家が所有した名物・鐺通し新藤五を作刀した人物とは、相州にて刀鍛冶をしていた新藤五國光のことです。

 

 新藤五國光は相州鍛冶の祖とされる超ビックネーム。鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて活動した人物である。粟田口国綱の子とされ、長い作歴のため1代説、もしくは親子2代説が昔からあったという。江戸時代後期に3代説を唱えた壮大な想像家がおり、これにより説が複雑になった。つまり、粟田口が初代、これまでの國光が2代目、その子國光が3代という説が提唱された。これってどうなの?

 そのあとは、貞宗や、秋広、広光らの系譜になっていくわけです。

 

結局、刀工の系譜とか親子、師弟関係など、不明な点が多い業界です。鍛冶作業を必死にやっている忙しい方々が、きちんと系譜など記録しておくでしょうか?江戸時代なら可能ですが、鎌倉時代や南北朝時代にきちんとした系譜は無いでしょう。そのために現在、諸説あるわけです。

よって、これらの研究がこれ以上進展するとは思えません。諸説あるなら、どれも可能性がありますよねと、合点してそこまでに留めておくのがベターだと思います。

 

このような名工・新藤五國光が作刀した名物「鐺通し」について、以下に記します。

 

 

 

 

2、さくら市ミュージアム企画展 第107

 「鎌倉公方足利氏の至宝 喜連川家文書」

 

 令和71018日から1221日まで開催されています。

 その中で、足利家の新藤五國光に付属していた栗形が展示されている。私も会場に足を運び、栗形と笄を鑑賞した。実は、これを鑑賞したので本項を執筆した次第であります。

 

 新藤五の刀身は他所に伝わっていて、喜連川足利家には外装の刀装具で笄と栗形のみが伝来した。

 なぜ、笄と栗形だけが伝来したのか不明である。

 刀身は鑑賞できないので、展示されていた伝来の刀装2を鑑賞してみよう。

 

 

・栗形

 鉄地で、状態はあまり良いとはいえない。三鈷の金紋が1つある。金はよく残っており、三鈷の形状がはっきりとわかる。古い時代の刀装具なので袋着せだろうか。一見、袋着せには見えない。金象嵌だろうか。博物館の展示なので手に取って鑑賞することはできない。ケースの外からでは詳細はよくわからない。

 

 

 

・笄

 素材は赤銅地というが、見るからに精錬されていない山銅のように見える。もしくは焼失したのだろうか。傷んでいるように見える。全体的に漆のような跡が所々に見られるので、往時は漆でコーティングされていた事が分かる。やはり実際に手に取って観ないと、色味や重さ、所作を細かく鑑賞できない。

 

 形状は、室町時代以降の笄よりも細い!細すぎる。寸法を載せてくれ。巷にある室町時代の物よりは細いはず。

そして、造りが薄い!薄すぎる。

 これは古い。このスタイルだけを見れば、南北朝時時代から室町時代初期頃だろうか。ただ、紋を見ると違和感がある。

 

 ただ、状態が悪すぎるのが残念である。

まさか、火事で焼けてないよね…。

 

紋は3つあり、金紋で三鈷、加飾が剥落した法輪、もう一つは銀紋かと思われるが、紋は不明である。柄香炉か手燭かもしれない。

これらが横一列に並んでいる。仏具系の図柄でそろえた作品である。彫金レベルは決して高くはない。装飾創世記のつたなく味のあるという表現になる。三鈷の金紋を見ると一応細かく表現されているが、平均的なレベルとそう変わらない。大したことないレベル。高彫紋に金をほどこしたのだろうが、焼き付けに見える。うっとり金かぶせには見えない。江戸時代前期の作にも見えるし、そんなに古い物なのだろうか。近くで鑑賞できないので、謎である。

 

法輪は銀で劣化して黒い?もしくは赤銅なのだろうか。

よく見ないとわからない。

 

柄香炉か手燭?は銀が少々光っている。→よって、真ん中の法輪が黒く劣化したわけではない。やはり法輪は赤銅か。

 

竿や穂先を見ると、おそらく破損無しの生ぶ状態と思われる。

 

横から見ると若干曲がっている。鞘から落ちないために曲げたと思われる。これは仕方ないことか。

 

 

地板に魚々子は見えない。ダボ錆のようにデコボコしているが、赤銅(山銅か?)なので錆ではないだろう。外角はへこみ、傷などあり、やはり状態が悪い。

 

耳?は逆耳ではないが、すっと伸びて小振りに立っている。

 

全体的にみると、室町時代のように見える。南北朝までは遡らない。

 

 

 

 秀吉から返品され、金具がバラされた状態で伝来した。

 なんじゃこれは。外装はどうしたのだろう?

 

 

 

推測するに、刀身だけは返ってこなかった。

栗形と笄だけ返ってきたかのように思えるが、当時は拵えごと返ってきたのだろう。そして、拵えが経年劣化か火事により損傷して金具をバラして保管し、後世の足利家の関係者が、笄と栗形を宝物として書き記したと考えられる。

 

 献上されたものだから、まさかバラして返さないと思う。秀吉はそこまでひどい事はしないだろう。

秀吉側は、国光の刀身のみ受け取って、足利家に敬意を表して拵えは返品した。まあ、それなら恰好はつくか。

 

 

 

 

3、史料「豊臣秀吉朱印状並覚」について

 

以前、さくら市ミュージアムの企画展「喜連川足利氏誕生の軌跡 〜古河公方・小弓公方〜」2020年開催)では、「天正19年 豊臣秀吉朱印状?覚」(東大史料編纂所文書写)という史料が展示されていた。

 

この史料は、A「秀吉の朱印状」と、B「後世の覚書」に分かれている。

 

まず、A秀吉朱印状によると、当時古河にいた足利氏姫は女房衆を上洛させて秀吉に脇差・鐺通し新藤五を献上した。その時、喜連川足利国朝と婚姻し、さらに氏姫が何処に行こうとも現在の知行屋敷(古河)は保証すると、孝蔵主から申しわたされた。

 

そして、B覚書には、“御かうがい”(笄)と、“御くりかた”(栗形)が記され、御小尻通しの御剣につき御道具の由に…と書かれている。

これは足利家の関係者が、鐺通しの付属品であった刀装具を、家宝の一覧として後世に書き留めた史料である。

よって、時代が経って、鞘や柄などは劣化したので、金具の栗形と笄のみ残した可能性が、もしくは火事で焼けた?

…だと思うんだよな。

 

 

 現在、巷にある新藤五の現存品は短刀が多く、長い刀はほとんど無い。脇差とて貴重である。

別物の可能性があるが、新藤五をそんなに何振りも所持しているわけがない。名物帳の刀とほぼ同品と考えられる。

 

 

秀吉としては、新藤五国光などの名刀は褒賞として下賜するに何振りあってもよい。譜代家臣のいない秀吉にとって褒美のネタはありがたい。それによって家臣や大名を繋いでおけるのだから。献上されればさぞ喜んだだろう。

そして、鎌倉公方の末裔である足利氏姫に対する敬意をこめて返品したのか、もしくは一種のデモンストレーションとして秀吉の粋なところを内外の者たちに見せたかったのか。

謎の返品劇の真相はそんな所だろう。

 

 

 

 

4、鐺通し新藤五の来歴

 

 「日本刀大百科辞典 第二巻」(著 福永酔剣大先生様)をかいつまんで説明すると、以下の通り。

 

  鎌倉公方足利家の名刀。鐺通し新藤五。

  応永31年(1424年)1127日、足利持氏は奥州の篠川御所から来訪した、伯父で篠川公方の足利満直に鐺通し新藤五を贈った(鎌倉大草子、南朝紀伝)。

 

 永享12年(1440年)3月 結城合戦勃発。

 

 永享12年(1440年)624日、足利満直は結城合戦に際し、一斉に放棄した南奥州の諸豪族らに篠川御所を襲撃された。足利満直は自害。書籍には、足利満直亡き後、6第将軍・足利義教が鐺通しを召し上げたかとの推測を載せている。しかし、義教は2年後に殺害された。

その後、鎌倉公方に戻ったのだろうか。

 これを見る限り、鐺通し新藤五の行方は不明である。

 

それから約150年後、戦国時代が終焉した時に登場する。よって、いつの時代か古河公方足利家に戻っていたと思われる。

 天正19年(1591年)3月、鎌倉公方の末裔・古河の足利氏姫が豊臣秀吉に献上した。

 その後、大坂城内において、豊臣家重宝の「一之箱」に収められていた。

 足利氏姫のもとには、栗形、笄のみ返却された。

 

 

 その後、元和元年(1615年)に作成された埋忠寿斎写し(本阿弥家史料の写本)の刀剣史料によると、焼け身の注記がある。何らかの戦災か火事にて焼けた刀身を、焼き直して伝承したと考えられる。

 

 そののち徳川家の所蔵となり、八代将軍・吉宗の時代に作成された享保年間の「名物帳」に小尻通し新藤五(足利家の鐺通しと同じとされる)が所収されている。

 

 明治時代後に、元・西条藩主の家系である松平頼庸(18941973)氏所持。現在、個人蔵。

 

 

 

 

5、掲載史料

 鐺通し新藤五の形状を確認するため、東京国立博物館デジタルライブラリーを利用し、以下の2点の史料を拝見した。

 

●「名物帳」本阿弥市郎兵衛編 源長俊写 安永8年(1779年)によると、

 

御物 小尻通新藤五 銘有 長サ壱尺分半 無代

由緒不知 表裏樋 表剱三鈷 裏倶利伽羅有し

 

 

 とある。また、

●「名物帳 自三作至焼失之部」安政4年(1857年)には、

  

 表ヒノ内ケン三鈷

裏ヒノ内クリカラ

 記二字銘國光

 トノ〇〇〇キ同所

 穴有テ二字一カゝル

 國ノ上二モ穴アリ光

 ノ字一カゝル

 

 同 小尻通新藤五 長壱尺分半 無代

 由緒不知 表裏樋 表剱三鈷浮彫 裏倶利伽羅同

 

 

鐺通しの名の由来は不明。鐺とは鞘の先の部分ですが、これを名に冠すのは何故じゃ。なんで鐺(小尻)通しなんだろう?小尻を突き通したのだろうか。通常ではありえないが。もしくは、小尻を突き通すくらいの鋭さを持った脇差だったのだろうか。

 

上記史料の2点によると、銘は「國光」。

中茎の目釘穴は二つ、「國」と「光」の二字の間にそれぞれ少しかかって穴が開いている。

 

 刀身表の樋には三鈷剣、裏の樋に倶利伽羅龍が彫刻されている。

 

 

史料によると、小尻通しは焼失している。本能寺の変か、大坂の陣、明暦の大火など、兵火か大火など、何かしらの火事にあっている。

現在は元伊予西条藩主の松平家所蔵となっている。

 

 

史料には脇差とされ、刃長1尺分半(15厘)は約30.4cm

しかし、現在の刃長は975厘(約29.5cm)となっている。後世に若干磨り上げたのだろうか。それとも焼失したから、焼きや曲がりを直した際に短くなったのか。現在は短刀と称したほうが分かりやすいが、厳密には種類分けなど無用か。

 

 

また、「日本刀大百科辞典 第二巻」(著 福永酔剣大先生様)によると、刀身の説明と押型が掲載されている。

 

・板目肌立った地鉄。 

・広直刃、小乱れまじりを焼く。

・押し型を見ると、?利伽羅がすごい迫力。

 

ただの直刃でなく、少し乱れているところがグッドだが、私は細直刃が好み。直刃だが、けっこう乱れている。樋が太い。倶利伽羅龍がゴテゴテしすぎていて凄い。

 

 

 

 

まとめ

さくら市ミュージアムにて、鐺通し新藤五に関する品が展示されていたことはとても素晴らしい。

 喜連川足利家と、豊臣家との関わりが分かって面白かったです。

 

 

 

 

 

 

 

拵えをバラして返したのではない。わしはそんな性格の悪い事しないよ。

でも刀身は貰いました。ありがとう。by秀吉。

 

 

 

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