下横倉城

(栃木県宇都宮市下横倉)

 

 

 

下横倉城は栃木県宇都宮市下横倉にある。本当は「横倉城」と言いたいが、史跡登録名が「下横倉城」なので…

 当城は比較的よく訪問されているほうだろう。書籍にも掲載されているし、宇都宮市の市街地から近い。城は高い山城ではなく、少し登れば到着する。

 城のある山は「小屋山」という。小屋=城なので、地名とピッタリ。

 

 

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城の歴史について簡単に

 

宇都宮家臣の横倉家の城とされる。徳田浩淳大先生の資料によると芳賀一族らしいが、これはちょっとどうかと思う。1509年、連歌師宗長が下野を訪れたさい、日光から宇都宮に行く途中に横倉に立ち寄ったと、日記「東路のつと」にある。そこで同道した壬生綱重と和歌を詠み合っているが、横倉領主の所に立ち寄ったとの記述は無い。ただ横倉の地で和歌を詠んだだけ…と私は解したのだが、皆さんはどう思われますか?横倉領主の名が出てくれば面白かったのだが。

 

戦国時代後期には君島(風見)左馬助高範が入城してこの周辺の指揮にあたった。横倉家はその後、一時的に補佐になったと推測される。現在も家老格だったとの伝承が残る横倉家が存続している。それが横倉家の家老なのか、風見高範時代の家老(城の家老)なのか判然としない。

君島家は外様家臣といえども、戦国時代には各方面に配置されて活躍した。君島系図によると、篠井、横倉を君島(風見)高範が担当し、主に日光、鹿沼方面への備えとなった。篠井城主は大橋兵部とされるが、一時的に君島の統括下に入ったのだろうか。さらに北に行くと古山城(日光市沓掛)があり、君島一族が在城していた。塩谷町に行くと大宮城があり、城主の大宮家を中心に周辺の領主も集まって、宇都宮家が日光方面に備えた時の後詰のような軍事拠点となった。また、大宮城は藤原、鬼怒川方面への後詰にもなっていたように思える。

 これらを見ると、重要な拠点に君島一族が配置されていたと考えられる。

 

 

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城の構造について

 

 下横倉城について、ネット上でよく見かける情報が、非常に簡単な構造をしているというもの。1郭、2郭で分けられているだけ…などと簡単に書かれていると、せっかくの登城の気が萎える。

 以前行った時は夏頃だったので藪がひどくて形状がほとんど分からなかった。主郭と二ノ曲輪の間の堀をめぐって、東の道路から降りてきただけ。

 

今回は藪が刈り払われているので、とても調査しやすかった。

 図面にすると、とても考えて造られた良い城と思った。

 私の見解は専門性に乏しいが、少し考えながら構造を見ただけで防御に適した城であると分かった。

 決して単純な城ではない。

 

 

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下横倉城 縄張図


 ↑クリック、縄張図です。



 

東側の大堀切

横倉城は東の山との間に大堀切があるのは知られているが、書籍やネット上では大堀切が描かれた図面は見当たらない。城から少し離れているので描いていないだけなのか?道ではなく、あれは確実に堀切りだ。山との間を完全に遮断している。堀切の北側は崖となって、南はゆるく傾斜している。長さ50mくらい。

 

 

主郭(T)について

主郭は下横倉城の一番標高の高い位置にある。一番高いといっても、主郭と二ノ曲輪の高低差は34mほど。主郭はゆるやかなカーブを描いた楕円形のような形をして、南、東を土塁が囲み、北以外は堀で囲まれている。北側は急な崖なので崩れたか?南側に横矢を伴う虎口がある。重機で広げられているが、ここが虎口と考えられる。主郭の南西入口と土橋は、麓のお宅から主郭での山仕事をするための入口で後世の改変と思われる。

 

 囲む堀はゆるやかなカーブを描いているので、先が見えない構造になっている。敵兵が堀を移動すると、先に何があるか分からず攻めにくいと思う。北東には張り出した櫓と虎口のような物がある。これは遺構かどうか分からない。北側にも腰曲輪のようなものがあり、往時は全周していたかもしれない。

また、数十年前に主郭の中心あたりに井戸があったが、現在はどこか分からない。墓石や川原石などが置いてある所より東だというが不明。また、東側の堀は重機が通るためにゴリゴリに広げたという。

 

 

二ノ曲輪(U)

 主郭の南にあり、周囲を堀が全周している。土塁は主に北、南に残っている。西と東の堀は堀底道と思われ、ゆるくカーブしている。主郭の堀と同じように先が見えにくい構造となっている。それをそれぞれ北に進んでゆくと、主郭の高い土塁や櫓台にぶつかる。ここで敵兵を迎撃したに違いない。

 

北東の堀は東の沢から山に登ってこられるように重機で広げられおり、土塁が崩されて二ノ曲輪内になだれ込んでいる。その付近には神社があったが現在は移転した。

城の書籍によると曲輪内には井戸跡が2カ所あったというが、現在は猪被害もあって全く分からなくなっている。なんでもない穴ボコを井戸跡と誤認した可能性が高い。

 

 

南の尾根先端(V)

 ここは自然地形で城の遺構は無い。神社があって登り道が付いている。この道は後世の改変の可能性があるが、登城する時もこちら側から登ったと思われる。南端からは周囲の展望がきく。空気が澄んだ季節には富士山の上部が見えるという。物見に使っていた事は容易に想像できる。

 

 城の遺構が無いのは周囲の地形による。この西側は斜面がなだらかで、下からすぐに登ってくることができる。よって、この張り出した南端の尾根部は捨てて、一歩引いた二ノ曲輪にて土塁と堀で防御を固めた方が良い。

 

 

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総括

 

 下横倉城は単純な構造ではなく、技工的な城である事が分かった。

 

・先の見えないゆるくカーブした堀。

・堀底道を進むと迎撃するための土塁や櫓台がある。

・主郭の虎口の横矢。

・城と東の山を分断する大堀切。

 

 

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