千手山砦 せんじゅやま とりで

(栃木県鹿沼市千手町)

 

 

 

 

 

千手山砦(千手山城)は鹿沼市千手町にある。昔の住所は「坂田」と云った。

 この千手山砦は、城として認識されていたわけではない。鹿沼市発刊の「鹿沼の城と館」に掲載されて日の目を見た。

古文書や伝承では、城郭としての記述が無い。よって、色々考察すれば城郭であろうということで城郭関連遺構として書籍に掲載されている。

 

 

 ここは市民の憩いの場「千手山公園」である。

通称「おせんじゅさん」。

子供の頃よく行ったが、城郭遺構があったなんて全く知らなかった。ものすごい竪堀が山との間にあるんですよ。二重、三重の竪堀が。

 しかも大規模。これは城なんだろうか。とりあえず描いてみよう。

 

 

園内は一日中、童謡が流れている。子供向けの公園ですからね。継ぎ目なく、ずーっと。頭の中が…。他に、ガンダムやキャプテンハーロックも流れていた。チョイスが凄い。

 子供連れのご家族がいますので、ご迷惑にならないように見学しましょう。また、周辺の住宅にも近寄らないように。

 

 

 

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千手山砦(千手山城)縄張図

栃木県鹿沼市千手町2610

 

 

 

 

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城の構造について

  

頂上に主郭と思われる三角形の曲輪がある。土塁は無いが、二面は横堀で囲まれ厳重である。

西の坂田山方面は造成によって遺構が破壊された。この時、主郭の西端と、西側の二重堀が破壊された。戦後の航空写真を見ると、西にもう一郭あったようにも見えるが、単なる山道のラインとも思える。無いと考えたほうがよさそう。それより坂田山側に遺構は無いようだ。

主郭の下に二ノ曲輪、三ノ曲輪と思われる段々があるが、切岸は明瞭ではない。その両側は横堀が竪堀となり、ぐんぐん下まで伸びる。

 この辺りがメインであろう。

 

 

 

北から東の部分

北側に重厚長大な横堀がある。多少、折れもある。土塁は丸いが太い。そこから山の斜面に沿って東に伸びて下り、遊具の汽車あたりになると横堀となり、北側で切れる。この先は、汽車の線路や観覧車の尾根で、昔はどうなっていたか不明。地形的には大体むかしのままになっていると思われる。

 おそらく、二ノ曲輪や三ノ曲輪のように、切岸のはっきりしない、なだらかな曲輪が段々となっていたかもしれない。

中心から東は公園化の造成により改変されている。なんとなく段々や尾根、谷などは分かる程度。そんなに大した遺構は無かったと思われる。

 

そして、東端の千手院の観音堂や山門辺り、納経堂のあった管理事務所は、だいたい往時の姿を留めている。この辺りは城域ではない。

 

 

 

西側、南側の遺構

南の「青年の家」あたりは、もっと南に竪堀が伸びていた。現在は崩されているが、その他の場所は大体地形的に残っていると考えられる。

遊具のジェットスターとその北あたりはかなり改変されている。昔は城に関する地形であったと思われる。

 

西の坂田山との間は、これまた重厚長大な竪堀が二重に掘られ、中腹で三重に分かれる。ここが千手山砦の最大の見どころであろう。折れている部分は横矢なのだろうか。

これは単なる小城などではなく、堀だけなら鹿沼城と同程度の土木量と考えられる規模である。

 三重の堀あたり

 

 

全体の姿から考えると

千手山砦の範囲を推測すると、観覧車、汽車の線路、ジェットスター、その南の段々、青年の家辺りに、なんとなくの段々曲輪として若干の削平があったように思える。

 そして、東側には千手院があった。千手院の範囲は、現在の千手堂、山門の敷地と、千手山公園管理事務所の場所に納経堂があった。これらが千手院の範囲ダス。

 駐車場あたりは谷で段々の登り道か。

 

 

これらを総合すると、はっきり言って曲輪で守る気は無い。柵でも立てれば防御力はあるが、メインは堀である。虎口は分からない。

突貫工事で堀だけ大規模に堀り、駐屯するために何となく段々曲輪を拵えたように見える。堀は折れている。これは横矢というのでしょうか?

 

 突貫工事であんな大規模の堀が作れるのかと言ったら、本当に大変な工事になるでしょう。おそらく、昔は坂田山と千手山の間は深い谷となっており、それを利用して土塁を盛って二重、三重の堀を造ったと推測します。

 

 

 

戦後の航空写真を見る限り、鹿沼城と千手山の間に城郭のような陰影は無い。坂田山の北側も。開墾もしていたので段々あり、山道は無数にある。

 

 

 

 

 

 

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千手山の堀を造った時代は?

 

 

発掘調査をしないと分かりませんよね。

でも、次の5案を考察してみます。軽く読み流してください。

 

1、壬生綱房の時代 千手観音が来たとき

2、徳節斎の時代  瑞光寺が来たとき

3、徳節斎〜壬生義雄の時代 瑞光寺が去り、符郡城が築城された頃

4、天正18年(1590年)小田原合戦時

5、後世の単なる山道

 

 

 

 

1、壬生綱房の時代 千手観音が来たとき

天文4年(1535年)当時、鹿沼にて力を持っていた鹿沼右衛門尉(壬生氏であろう。綱房か?)により、板荷の観音原から千手観音が当地に移され、千手院として安置された。江戸時代の千手院絵図によると、建物は多少違えど、千手堂や山門は現在とほぼ同じ位置にある。しかし、戦国時代の千手院がどのような配置だったかは不明である。多分、現在と同じ位置にあったと思います。

この時代、鹿沼城は整備中だし、もっとあとの時代になって千手山まで城域を拡大していったと考えられる。

なので、千手山に大堀をめぐらしたのは、この時代ではないと考える。

 

 

 

2、徳節斎周長の時代  瑞光寺が来たとき

徳節斎周長が鹿沼城主であった時代だと、およそ永禄〜天正年間頃であろうか。その頃、玉田にあった名刹・瑞光寺を千手山に招いた。その時に紫雲山瑞光寺から千手山瑞光寺に改めたという。

 

瑞光寺を招いたとすれば立派な伽藍が配置されるはずである。おそらく千手山砦の主郭か坂田山あたりを西山として崇め、千手院の伽藍に瑞光寺が住み着いたと考える。やはり、千手院は現在の場所のままだったかな。

この時、瑞光寺の防御として山中に堀をめぐらした可能性がある。

 

 しかし、戦国時代に戦が激しくなり、数度の戦火に見舞われた瑞光寺は玉田に戻った。玉田山瑞光寺となる。紫雲山の山号は千手山に置いていき、残された千手院は紫雲山千手院となった。

 う〜む、これら寺の防御として二重、三重の大堀を造るだろうか。大変な土木量だし。このときの可能性も低いと思います。

 

 

 

 

3、徳節斎〜壬生義雄の時代 瑞光寺が去り、符郡城が築城された頃

この頃、北条家と親密になった。

で、あの大規模な竪堀&横堀が掘られたか?という問題。

壬生家だけであんなとんでも堀いけるか?北条家の手も借りて作られたのだろうか。

 

堀だけなら壬生家だけでイケるのかも。北条家の手も借りたかもしれない。坂田山と千手山の間は深い谷で、それを利用して堀にしたならば突貫工事でイケる。

千手山の主郭、二ノ曲輪、三ノ曲輪を見ると、土塁も無し、切岸もあやふや。主郭以外は切岸が明瞭でない。堀だけ凄くて、城内はあんな程度なのだろう。昔の航空写真を見ると南の堀は山下まで伸びている。凄い。尾根や谷内部は自然地形に近いに違いない。

 

 天正4年(1576年)千手山の東に宇都宮家の符郡城(府所町)が築かれたという。千手山から符郡城を見ると、そのハルカ向こうには宇都宮家の居城・多気山城が重なって見える。鹿沼城を中心に考えれば、千手山は宇都宮家方面への砦となるにふさわしい位置にある。

 

しかし、天正4年(1576年)徳節斎周長は、宇都宮家臣として鹿沼城にいた。符郡城の天正4年築城説が正しければ、符郡城は宇都宮家中の徳節斎を補助するための城になってしまう。これ合っているのか?この至近距離に築くことができた理由もうなずけるが。これは符郡城(府所城)の項で考えよう。

 

という事は、次の2説か。

●天正7年(1579年)2月、徳節斎周長は壬生に討たれ、鹿沼城には壬生家臣の神山綱勝が入城した。この時に千手山砦が築かれたか?

 

●もしくは、天正13年(1585年)に神山綱勝は壬生家に背いて宇都宮家に奔った。そして壬生義雄が鹿沼城に入城した。この時に千手山を砦化したのだろうか。

 

 この時代に大堀が作られた可能性はある。

 

 

 

4、天正18年(1590年)小田原合戦時

この頃も北条家と懇意。

天正18年(1590年)壬生義雄は小田原城内に籠城していたので、鹿沼城には壬生家臣たちが籠城していた。小田原合戦ののち、壬生綱之や座禅院昌淳たちが鹿沼城の合戦について壬生旧臣らへ感状を発給している。

 小田原合戦が近づくなか、大合戦を予測して千手山に大堀を造ったとも考えられる。眼前には宇都宮家の符郡城(それか、壬生家の城)がそびえている。

 このときに大堀が作られたのだろうか。可能性は高いと思う。

 

まさか、結城軍が鹿沼城を攻撃するための陣城…?まさかね。。。位置が近すぎるし、急ごしらえであの大堀は作れないよね、多分。

 

 

 

5、後世の単なる山道

 これは無いか。いままで熱弁してきて、まさか。

まず、千手山が城(砦)だという伝承が残っていない。しかし、この辺りは千手町になる前は「坂田」といった。坂田山の坂田である。坂田山城という伝承はありますね。

でも坂田山城というと違う場所で、東電の脇の高い山で稲荷が祀られている「鹿沼徳節斎古城跡」だ。あっちだよね。

 

城の伝承が無ければ、単なる山道なのだろうか。近年まで地元のおじいちゃんも、この竪堀を通って坂田山に登っていた。昭和以前の人はどこからでも登る。峠道、山上の畑に行く道など、どこでも山道を作って登った。千手山の堀を通れば、上の山に登るのは簡単。これ如何に。今は藪が凄くて通行不能です。

一番西側の堀は浅い。土などの堆積があって今は山道程度ですね。しかし、中心と東側の堀は深くて幅が広い。やはり、これは城の堀だ。

 

 

 

 

 

 

まとめ

 

これは何だ。

千手山が砦だとしたら、千手山砦(城)の存在意義は。

 

さて、妄想です。

 宇都宮家の多気山城や符郡城から、壬生家の鹿沼城方面を見れば、正面には千手山砦がある。戦国時代に千手山の雛壇に兵がひしめきあっていたら、鹿沼城の前線基地として宇都宮家に立ちはだかったであろう。ある意味、威圧的である。

 妄想ですが。

 

 

 

 

 

  戦国時代よりあとの時代

千手院は江戸時代前期に最盛期を迎えた。現在見られる千手堂は江戸時代前期の建物である。

大正7年、国有林だった当地を民間に払下げ、学校を建設する費用の足しにした。昭和23年より公園事業開発が始まった。のちに、現在の千手山公園となった。

 

 

 

あと、プチ情報。

 

昔、千手山に採掘の旧抗があった。

千手院山門の石段西脇20メートルくらいの場所に、採掘の旧抗が30メートルほど伸びていた。これは地元でも謎の旧抗で、いつの時代のものかも分からない。付近には、長石、石英系の鉱物があり、他に木灰や井戸、鍛冶場跡などがみつかったという。現在は埋められており、全貌は明らかにできない。地元の伝承にも残っていないのは、田舎の小規模な坑道なのか、非常に短期間だったのか。謎の坑道である。

 

 

 

 

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