山居台館 さんきょだい やかた (栃木県芳賀郡益子町山本)
「芳賀の文化財 第19集 城館・陣屋編」に掲載されている山居台館を紹介する。
本によると、城跡の山は「だんご山」と呼ばれているというが、その上の山頂をだんご山という人もいる。地元の方もよく分からないらしい。 おそらく、山頂から山腹あたりまでピークが何箇所かあるデコボコの山なので、それで「だんご山」と称したのだろうと思う。つまり、山全体がくしに刺した団子のように見えるのだろう。
この山は地元の方が登山ルートとして整備しておられるので、簡単に登ることができる。しかし、地元の方に一声かけましょう。地元の方数名に城のことを聞いたが、城跡としてはあまり知られていないようだ。みなさん、ハテナマークだった。 訪ねたい御家があるのだが、コロナになってからとん挫している。もうそろそろ、うかがってみようかな。 麓は益子家臣と水谷家臣団が混在しているにおいがする。
登山道は城跡を避けているので遺構はほとんど壊れていない。
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山居台館 縄張図栃木県芳賀郡益子町山本 字松本
だんご山の背後はP230の山があるが、あちらには遺構無し。城はその少し手前で、中腹のだんご山にある。この遠くから見ると、ピークも含めてデコボコで、まるで団子のように見える。この一帯の山を見てだんご山というのだろうか。本当の事は分からない。 城の北側中腹に「山居台遺跡」という有名な縄文遺跡がある。 山居台遺跡の場所に昔、光明寺か鶏足寺があったという説もあるが、これは単なる推論にすぎない。山居台遺跡の発掘調査では寺に関係しているかは分からない。
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城の構造について
主郭には古墳がありますね。 少し楕円で卵型の主郭。未成型の部分が多いが、施設や柵などで区切っていたのだろうか。なかなか広い。
主郭の北には堀切がある。 その先に二ノ曲輪があるが、ここもほとんど未成型。先に腰曲輪のような段差があり、二股に分かれる尾根からの攻撃に対して防御している。
主郭の周囲は細い帯曲輪がぐるりと周り、南にはわずかな土塁と堀が残る。 南はこれが最終防衛ラインであろう。 南の山との境に山道を伴う切通しがある。大きい堀切にも見えるが、これは堀切ではなく道でしょう。
技工的な部分は少なく、「芳賀の文化財」では歴史不明で見張りの砦と推測している。
城の西にある沢は「家臣沢」という。 まさに家臣たちが住んでいたような地名だ。 水谷家臣らが住していたのだろうか。
まとめ
山本古屋城に関連する見張り台か烽火台と推測されているが、山居台館は古屋城からは遠すぎると思う。関連しているのだろうか。逆に対立する勢力同士かもしれない。 おおまかに推測すると、高塩(笠間)か益子の勢力で、のちに水谷領になったと思われる。
この地域に伝わる伝承を掲載する。 田野城の合戦後は、山居台あたりは水谷領になったという伝承がある。
益子町前沢には田野城配下・上野平右衛門の館があり、「平右衛門屋敷」と呼ばれていた。田野城の合戦で羽石が敗北した後も上野平右衛門は水谷に従わず頑張っていた。山居台あたりに住していた廣澤重宗は、水谷蟠龍斎の下知により心ならずも攻め取り、のちに重宗が住したという。
また、前沢の山根にある「廣澤山重宗寺跡」はそれに関連する寺院跡である。戦死した上野平右衛門の呪いによって蛇が出現したが、それを退治し、供養するために重宗寺を建立したという。現在は山の中腹に御堂が残されている。 寺伝によると、寛永2年(1625年)5月吉日、廣澤因幡守道悦の嫡子で、廣澤宮内左衛門重宗が建立した。廣澤家は水谷家臣である。 また、平成6年(1994年)8月吉日、廣澤重宗の末裔とされる重賢氏が碑を建立された。
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