坂戸城

(茨城県桜川市大泉/西飯岡)

 

 

 

茨城県の岩瀬地方は、現在は桜川市となっている。

戦国時代は益子家、笠間家の紛争の地として有名で、他に結城家、小田家、太田資正らも加わり、激動の戦乱地帯であった。

当サイトは下野の戦国時代を主とするが、宇都宮家中の益子家、笠間家が関わった常陸国の岩瀬、笠間地方まで研究範囲としている。

 

 

その中で重要な役割を担っていた常陸国の坂戸城を紹介する。越後の有名な坂戸城ではないっす。

宇都宮家臣の小宅家が居城した。取ったり取り返したり、いろんな勢力から狙われて戦場となった。

城の歴史は書籍やネット上に書かれているので、どうぞそちらをお読みください。小宅家の苦労が分かります。

 

 

 

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坂戸城は広いので小宅家だけでは守り切れないだろう。地元の勢力も従えて共に守ったに違いない。

この山の高低差はそれほどでもないが、なだらかで広い山なので、下から登るとすごく時間がかかる。

城の麓(といっても山の中腹)にはゴルフ場があるが、城の一部が崩された程度で、大体の形が山上に残っている。崩した部分の形状は今となっては分からないが、航空写真を見る限りでは、崩した部分は峠道や山道、耕作地が主だったのではないかと推測する。

 

 

車でゴルフ場の駐車場まで行くことができる。

お客さんの邪魔にならないように遠くに停めて、ゴルフ場のカウンターにて城調査の御了解を得て登城した。

 

駐車場からなら簡単に行ける。途中にいた従業員の方にもご挨拶して登城した。

 

坂戸城はこの地域では有名な城なので、岩瀬町史、城郭大系や、各種書籍やネットに大量に掲載されている。

しかし、ほとんどが主郭まわりしか掲載していない。周辺を描いている方も多少いらっしゃますね。でも全部じゃない。坂戸城は山上の広範囲に遺構が広がっている。

なので、数年前に頑張って藪漕ぎして、なんとか図面にした。これは苦労した。昔、耕作地だったようで藪がとんでもない。激ヤブだ。

 

どこにいるか分からなくなる。

計測が間違っているかもしれない。

何度も行ってやっと描きました。ほんっと疲れました。

 

 

 

 

 

心の準備無しに行くと、ヤブがひどすぎて戦意喪失する。

 

坂戸城 縄張図

(茨城県桜川市)

 

 

城域は大泉地区と西飯岡地区にまたがっている。

北側の大泉地区の字名「城山」。南の西飯岡地区の字名に「伊勢代」がある。

伊勢代は城の南側の台地で、鎌倉時代頃から坂戸判官とよばれた鈴木伊勢守が城主だったので、伊勢守が拠った台地という事で「伊勢代」という字名になったと考えられる。応永年間に小宅家が来てから坂戸城を譲って、小宅家の家老として仕えた。

 

 

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城の構造について

 城山とよばれる広ーい山に遺構が広がる。

大きく分けて、西のピークと東のピークに分かれている。

 

 

西側

西側は若干高く、戦国時代まで使用したと思われる主郭を中心として曲輪、横堀などがある。皆さんが見学されるのは主にこちらですね。小規模に、多少だが技巧的に造られている。おそらく戦国時代の遺構であろう。

主郭には神社があり、祭礼も行われているので、その時だけ草が刈り払われる。

しかし、その周囲は激ヤブです。行く方は余程の御覚悟を。ケガ、事故など起きても当方では責任を持てませんので、坂戸城全体を見学される場合はお気をつけて。

 

主郭

 

南の二ノ曲輪

 

南の三ノ曲輪

 

 

 

 

 

東側

坂戸城の東側は、大雑把大規模に造られている。

激ヤブすぎて、中に入る気力を失う。ほんと凄いんですよ。

曲輪の中は耕作地だったゆえか、何も無い平らな場所や、デコボコなど様々。構造もよく分からない。堀は重厚長大…これは堀なのか、ちょっとあやしい。耕作に伴う道か?と思う箇所もある。絶対に堀切だと思う箇所もあって、判断に困る。遺構と断定できる箇所もあるため、こちらも城とした。

しかし、この城をすべて守るとしたら、とてつもない兵力が必要だ。はたして、宇都宮家だけで守備できるのだろうか。

 

 

 

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登城路について

 

 

入口はね、航空写真を見るとなんとなく…。

 

北西方面には峠道がある。こちらの尾根から入れます。私が北側から行こうとしたら、激ヤブで嫌になって断念しました。

 

西からのルートは尾根を登り、主郭下の曲輪群から入る。

でも、今はゴルフ場になっていて、途中までしか行けません。

 

北は堀ノ内という地域には根古屋があったかもしれない。

しかし、こちらは民家があるので、許可をいただかないと入れませんね。

ゆるい斜面なので簡単に入れるのだろうか。

 

 

大手は南か。ほとんどゴルフ場で潰されているが、なんとなく尾根が入口に見える。麓に字名「宿」がある。こちらも根古屋であろう。

尾根を登ると、東側のピークにたどり着く。そこから西の主郭周辺に着く。または谷を行けば主郭下の曲輪群にたどり着く。

  

 

東から山を登ると、すごく遠い。東のピークに達するが、そちらには長い堀が何重も築かれている。ただ、広範囲で造りが大雑把なので、人数がいないと守り切れない。

 

 

 

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まとめ

 

東西のピークで構造が全く違う。

 

西側は戦国時代の遺構。少し技巧的な部分もあるが、大したことはない。すると、既存の城を戦国時代に作り替えたのかもしれない。

 

 

 

東側の山は、広い曲輪に長い堀。畑跡かもしれない。いや、南北朝時代の遺構なのか?

坂戸城は南朝方の春日顕国が籠った中郡城の候補地の一つでもある。確かに東側の曲輪なら大兵力が籠ることができる。

中郡城かどうかは分からないが、坂戸城は巨大な城郭だ。

 

中郡城の候補地は、他に羽黒山城や橋本城などがある。この2城よりも坂戸城のほうがだだっ広くて、大人数が籠ることができる…ように思えてしまう。

うーむ、中郡城は謎ですね。

 

 

 

 

坂戸城は、南北朝時代ではどんな城だったのだろう。

また、戦国時代に小宅家が拠った頃は、どこまで使用していたのか気になるー!あと、小田家臣の信太の時も。どこに、どのような施設があって、どこが登城路だったのだろう。

 

 

 

 

 

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