西明寺城(益子町)

 

(高館山城)ー 合体城郭 ー

 

 

   

栃木県益子町の高館山城。西明寺の山にあるので、別名・西明寺城といいます。

 

もとは那流山という。城を築いたのでそのうちに高館山といわれるようになったのでしょう。

 

 

10年以上前に来たことがありますが、前は遊歩道を歩いただけなので、細部までは知りません。全体像は、おぼろげながら覚えています。ここは益子焼で有名な町ですが、益子焼のメイン通りである城内坂より南東へ。西明寺方面に行くと山が見えます。そこに城はあります。

 

当サイト内 → お城訪問記「西明寺城征伐」 昔に行った訪問記です。

  

 

西明寺城(高館山城)縄張図

 切り貼り

 

 

益子町史に図面があり、それを見ると、広大な城域を誇ります。

すごーく広い。これはやりがいがありそう。いつまでかかるやら…。

ネットなどを見ると、広いけどあまり技巧的でない。という意見が見受けられます。しかし、自分の把握している城域の3倍くらいが益子町史に描いてあるので、行きたくなっちゃった。

 

行ったことある城なので、今まで改めて図面を見る機会がなかったのです。

 

でも図面を見ると、昔の書き方で、しかも書き手によってバラつきがあります。これは仕方ない。しかし、先駆者はよくも隅々まで見て回ったなと感心。自分は城の遺構を全然把握できていませんでした。

 

 

大きすぎるので、ここでは便宜上、城を区画に割って説明します。

 

? 高館山山頂の主郭を中心とした主要部。(写真追加)

 

? 主郭の南の曲輪(新発見の遺構あり)

 

? 西部、旧主郭の権現平、見晴台(新発見の遺構あり)

 

? 主要部の北側の曲輪、大堀切など(新発見の遺構あり)

 

? 西明寺城 全体縄張図 貼り合わせだけど公開

 

 

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? 高館山山頂の主郭を中心とした主要部

  

 

 

高館山山頂の城の中心部です。清書前の下手絵(メモです)ですが、概要説明なのでお許しください。  

主郭の南東にある櫓台。

 

↓ 下に図面があります

 

?が言わずと知れた西明寺城の主郭です。南東部に櫓台があります。南を見張ります。北側には、低いですが、食い違い土塁です。

?は広―い。兵舎でもあったのでしょうか。主郭の周囲は広い曲輪です。でも削平があまく、中は少し斜めになっています。

 

下って、?曲輪の北側には虎口のようなものが。この辺りは複雑に曲がって?への侵入路があります。?の北、南のどちらから入ったか不明。その下は、細い帯曲輪があったのでしょう。斜めに崩して遊歩道にしているのが残念です。

 

?は帯曲輪。南から東にぐるっと回っています。

?の北に虎口、その下はさらに虎口があります。良い形ですね。

入口。この上が?曲輪

 

 

?より北側に、広い曲輪?、?があります。?と?のあいだの土塁は低いので、?と?が城の中枢だったのではないでしょうか。軍事で中心的な建物があったと思われます。これらの東側は急な崖で遺構がありません。

 

?ヤブ曲輪の北には大堀切があります。落差8mくらい??かな。

?曲輪。くそヤブ。 ※ この城は、遊歩道以外はヤブと思ってください。

?と?は高低差があります。南から?曲輪に入るように見えるのだが。ヤブすぎて判別不能。ここら辺はヒドかった。

 

くそヤブすぎて写真撮るのを忘れました。

 

?曲輪は西方面が、なだらか&段々??になっているような気がしました。こちらが入口でしょうか。駐車場から登る階段の途中に岩があり、その辺りから?曲輪に登るルートがあったと思われます。

 

 

主郭周囲以外は藪がひどいです!!

でもよく見ると面白い形。見学するときは注意してください。

 

 

 

 

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? 主郭の南の曲輪

 

(新発見の堀切あり)

 

南側にも曲輪があります。

各書籍には、スケッチや簡単な図面が掲載されています。とても簡単な構造??あまり期待していませんでした。

 

でも行ってみると、しっかり遺構。しかも長い。

主郭と同じくらいの曲輪が数個ならんでいました。

思ったよりずっと凄いよ!

こちらは南の尾根伝いを警戒していたようです。この上には主郭の大きな櫓台があり、西へ敵を誘導しています。。

 

藪がひどい。とにかくひどい。では簡単に解説。

 

主郭から急な斜面を降りると、脇に?があります。小曲輪で、上の主要部に沿って帯曲輪が伸びています。

 

東を見ると、こちらは小さな曲輪群。?や?の尾根から来た敵は、一旦??の曲輪にあつまり、?西の堀切に阻まれます。敵は土橋を渡ります。城兵は?で守備します。

東側の曲輪で土塁があるのは?だけです。

 

防御施設は簡易的ですが、この上は急な斜面なので簡単には登れません。こっちはヤブは大したことない。

 ?曲輪と土塁

 

 ?堀切

 

?の堀切は、公式な書籍で書かれていない遺構です。個人的に描いている方はご存知かもしれません。

 

では、メインの南の曲輪へ。こっちはヤブがヒドイ。

 

南側の山伝いからの侵入路から見ていきます。

城域に入ると、?の超大堀切があります。ここは、ちょっとやそっとじゃ渡れない。

 

で、?から北へ侵入。ここまでは大羽方面への城下に出る旧道があります。旧道と堀切が複合しているのかな?

このちょっと上に「横堀?」があり、ず〜っと斜面登り。やっと?曲輪の下に出る。?曲輪へ登る道は南にあるが、ここは虎口ではない。後世の道。侵入口は不明。

 

本来は西側の帯曲輪から周るのでしょう。?竪堀や、?巨大な土塁!!があります。土塁は圧巻。ぐるっと西を廻って?曲輪に入るのでしょう。

 ?巨大土塁。

 

ここは、1mほどの少し段があって?に出ます。何なんでしょう??ここも藪王国。

 

そこから?曲輪によじ登り、奥に進んで急斜面を登り、?から西に周ります。この間、主郭から攻撃されながら、西に行って、どっかで主要部の上に出て、そこから主郭を目指すのでしょう。

これ攻めるの大変ですよ。

 

南側は小規模な曲輪が続く…なんて事は無いです。

 

主要部よりも大きな曲輪があります。巨大土塁があります。

とても面白い遺構が広がっていますよ。

 

こりゃ凄い。

しかし、書籍に書かれている遺構の形とは全然違ってしまった。私にはこう見えたのです。

 

 

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? 高館山の下の城、権現平など

 

(新発見の遺構が何箇所かあります。)

 

西明寺城はとても広い城で、高館山山頂から広がる尾根や谷に多くの遺構が残る。山頂の中心部から下って、旧主郭とされる権現平、見晴台などを見て周る。

 

〇権現平(旧主郭)

 

ここは益子家が築いた古い城。高館山の山頂に築かれるまでの主郭とされる。

平安時代から鎌倉時代あたり。古すぎる。本当かな。

公園化、展望台の設置など、後世の改変が激しい。なんとなく城跡の形は保っていると思います。

 

 

西側に虎口発見

 

簡単な段々曲輪の配置ですね。西側に虎口のようなものを発見!!藪の中で、入口のようなルートがあります。しかし、改変か…?分かりません。一応、描きました。

 

当初の侵入路は南西の西明寺脇からのルートですが、南北朝時代以降は北西から入るルートもあったのかなと。すると、曲輪は道路で潰されていますね。

 

 

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〇見晴台

 

上の部分は広いが簡単な造りになっている。しかし、その下は少し技巧的。

 

 

推測の侵入路を「矢印」で記しました。

 

あくまで推測ですが、見晴台の南側からは、曲がりくねって上部に着きます。

 

また、無線塔から見晴台までは隣なのですぐに行けそうに見えますが、高低差があり過ぎ、直接登るのは不可能だと思います。

なので、無線塔から南に廻ります。ここには昔、堀切や数段の曲輪があったというので、こちらから見晴台に侵入したと思われます。

 

この東側に主郭などの中心部があります。ここは少し高台ですが、どのように中心部と接続していたかは不明です。

 

 

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新境地

〇無線塔と、その先の曲輪と、谷間の館?

 

こちらは、あまり図面にされていない方面です。益子町史や、いくつか描かれている図面には全然違う形に描かれています。ある意味、適当に描かれている方面です。ヤブがひどいので余計によく描けない。

私の図も角度や描き方など間違った部分もあるかと思いますが、おおよそこのような感じです。

 

?は北側の尾根を守る堀切。新発見。小規模ですが、堀は少し折れています。ここから登ると?の土塁がそびえています。?から?までは長い土塁で、?で竪堀になる。堅固です。

上には?の広い曲輪。無線塔の間に小規模土塁があるも、西側〜南側はダラダラとした斜め。岩などで入口っぽくしてある。道のようなものもアリ。でも斜めすぎて、あまり防御度無し。特に南側はほんとにただの斜め。後世に崩れたのでしょうか。

 

西に細尾根を下って?に着く。ここも削平の甘い曲輪。この辺りは北側〜西側の土塁&堀で守っていたのでしょう。

 

 

 

さて、?から?へ降りてゆくのは面白い。

?から南の段々曲輪に降り、そこから西に降りると連続した虎口がある。

この途中で「?曲輪」にも出られる。この上に自然地形の?曲輪がある。

 ?は「益子町史」には館跡とあるが、いかがなものだろう。ここは陽の当たりにくい谷の底で、暗くジメジメした場所。?に井戸跡がある(私はみつけられなかった)ようで湿気もあるのだろう。この下には水の出ている箇所もある。

 

 こんな所に居館を構えるかなぁ…。

 

それにしても良い切岸。広い曲輪。良い防御施設と心得ます。この西に大門口の地名があるので入口なのです。入ってきた敵が「?曲輪」の前に出ると、高い壁に戦意を喪失しそうです。

 

 で、今回の収穫が「?曲輪」の尾根。尾根先に遺構が無いか探ると、予想通り曲輪があった。

新発見の遺構。 

 

 

 

 ?から北西の尾根はヤブ!!!!頑張って突き進むと?の広場が!土塁でしっかり囲まれた曲輪。

 ヤブに埋もれて、ベンチやイスがある。ちょっと昔は遊歩道脇の休憩場所として使われていたようだ。

?の竪堀」「?の堀切」などで分断されているので、この尾根はかなり警戒していた模様。?から降りると土橋があり、規模のまあまあ大きな折れた?堀切。でも、その先はただの斜めー!

 

 ?堀切と土塁

 

西明寺城はこんな感じだ。堅固なのか簡易的なのか…。ただし、このような登りは敵兵を疲れさせたに違いない。

で、先の「?曲輪」と土橋、小規模な「?堀切」を発見。その先は遺構無し。

ここまでです。

 

 

 

 全体図

 

北西の「大門口」が西明寺城の大手といわれています。

 

次は、?「館跡?」の西側「大門口」の段々曲輪を描きたいと思います。

まだ適当にしか描いておりませんので隠しました。

 

 

右、高い切岸?「館跡?」と堀

 

 

 

城の西部、完了いたしました。

「大門口」と「西明寺口」

二つの入口です!!

西明寺口は城ではない可能性もある…と考えていましたが、実際に行ってみると城の入り口でした。

描いてみると分かりますね。

平安〜鎌倉時代の入り口??

 

しかし、西明寺から入るわけではありません。

西明寺のある尾根と、城の入り口の尾根は違います。間は深い谷で区切られています。

 

で、その後、南北朝時代の入り口は北西方面「大門口」です。

 

 

あと、西の端にあった道路添いの曲輪は簡単な平場の造りになっています。

しかし、その先の尾根には全く遺構が無い。堀で守られているわけでもなく、ただのなだらかな切岸。

一体、何なのでしょうか。見晴らし台なのかな。

 

 

 

 

西明寺城は北西から入る城

 他にも入口はたくさんありますが、城の大手口は「大門口」の地名が残る西側。この城はおおよそ、北西を向いて築かれている。

南北朝時代に西明寺城は落とされ、宇都宮家(益子家)の手から離れた。そして、春日顕国が入城、改修し、対宇都宮家の城に作り替えられた。

 

それ以前は、西の方角、西明寺の脇の尾根が入口という説もある。いずれにせよ、南北朝時代以降に北西方面が入口になった。そして、戦国時代に至るまでに北方面が厳重警戒されるようになってゆく。

 

 

図面を描いていくと、あることに気付いた。

西明寺城は谷地を入り口としている場所がある。谷を進んでいくと、そこに付いている尾根を登り、城内に入ってゆく。その谷地は二つの尾根に囲まれ、コの字型になっている

 

普通、城は尾根の先から登るのかなと思っていたので以外でした。

もちろん、尾根伝いは堀と土塁で切ってあります。

それプラス、谷からも入るところがある。古い形の城ってことなのかな。

 

 

色々な時代、構造がくっついて壮大な城域となっています。

 

 

 

 

 

 

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? 北東方面の遺構。

堀切が良い!(新発見の遺構あり)

 

 

一番北東の大きい堀切。ここは皆さん行きますので有名。

 階段付きです。

そうしないと降りられないんっすよね。高すぎて。

 

でも、ここは上の曲輪への入口じゃない。

で、その堀切の北には曲輪があります。小規模な堀切と小曲輪の連続。

この直線ラインしか見ていないと、簡単な造りにしか見えませんね。

 

 

だが、

重要なのはその周囲。 とっても技巧的、かつ狡猾。

敵兵にしてみれば、曲輪の周囲をグルグルまわされて大変な城攻めになるでしょう。。

 

便宜上、大きく分けて2つのエリアにしました。

 

A、元キャンプ場のほう。こちらは北西方面になります。

そして、

B、北東方面には大きい堀切が二つあります。

 

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A、北西方面。?には何かの管理施設。トイレがあります。

そこから緩やかに崩された部分を登ると?曲輪に出ます。ここは昔来たときに木造テラスがあったのですが、今は何もありません。だだっ広い。

 

?曲輪に降りて下を見ると、そこは素晴らしい堀切と土塁!!嬉しい。

その先?細尾根からの敵を防ぐのでしょう。この先はほとんど自然地形。本によっては遺構が何となくあるように描いているが、あれは描きすぎ。私の尾根先の点線部分はほとんど自然地形と思ってください。

 

B,北東方面に参ります。

城の主要部から北には大堀切があります。落差8mくらい?高さはよく分かりませんが、戦をしていたら絶対登れませんね。

そして?曲輪に入ります。ここは少々凸凹ですが広い。

 

この東側の下に土塁と堀が何重かあるのを新発見しました。

 

こちらは等高線が緩やかだったので調査したら、やはり遺構がありました。なだらかな稜線と岩が配置してある。入口ですね。

 

新発見の堀と土塁。

 

写真の左向こうは?の平場。右の上は?曲輪。

ここは書籍に書かれていないだけで、個人的に描いている方はご存知かもしれません。

 

?曲輪の北には、階段付きの大堀切?があります。?曲輪は北東方面の重要な防御ポイント。そして、?の土塁と堀は違う尾根からの敵を防ぎます。イイネ!

 

ここまで見ると、小規模な堀切と小曲輪の連続。

この直線ラインしか見ていないと、簡単な造りにしか見えませんね。

だが、

重要なのはその周囲。?曲輪。 とっても技巧的、かつ狡猾。

 敵兵にしてみれば、曲輪の周囲をグルグルまわされて大変な城攻めになるでしょう。

というのは、?から?曲輪には接続していなかったのでは?という説。高低差があり過ぎる。橋もかけられない。

分かりますでしょうか。紙の継ぎ目があってすみません。

 

よって、大堀切を西に進む堀底道だったのかな…と。

すると、?曲輪の下の帯曲輪に出るんですよ!!「黒」矢印がグルグルまわってますよね。

?尾根からの敵も土塁、堀で防ぎ、?から攻撃「赤」矢印の攻撃。

そして、?の南あたりの「桝型?」と書いた辺りから曲輪?へ侵入。

 

?曲輪に侵入しても、堀切を西に行き、上の曲輪からまた攻撃される。

 

?曲輪は今回はじめて行きました。ヤブで遺構の存在に気づきませんでした。

 

この城、面白いなー。

図面にしたから分かりました。この城は遊歩道がクネクネしているので、歩いているだけでは地形を把握するのは困難です。

これは寄せ手が大変。しかも藪がひどい。

藪、藪、藪!!!

人が入っていないんでしょうな。

 

 

 

 

 

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? 西明寺城 全体縄張図

(貼り合わせだけど公開

 

 

たくさん枚数があるので、貼り合わせが大変でした。

こんなにおおきくなるなんて。A1の紙に描くの大変だなぁ。

 

↑ う〜ん、図面はズレているところあります。

しかし、今の私の技術じゃこれが限界。浄書のときはもうちょっと修正かな。

 

各項目で説明してきたように、

南西部の西明寺口〜権現平が古い益子家の城です。

そして、北西部〜東部の山頂付近にかけて南北朝時代に拡張。

戦国時代はもっと拡張か、それまでの構造を改修して、このような広大な城郭になった。

 

 

東側は急なガケのためか、あまり遺構が無い。

でも平場はあるから、もっと防御を高めた方が良かったんじゃないかと思うんですが。

 

 

西明寺城は広くて技巧的な所も多く、益子家の大山城としてふさわしいものでした。 

 

 

 

 

 

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