西明寺城討伐





其の四


綱神社。

宇都宮家三代目・宇都宮朝綱が隠棲した地、大羽山。
朝綱の母・寒川尼の出身地であるから、小母(オバ)=大羽ということで、大羽の名がついたという言い伝えがある。
綱神社は朝綱建立。

奇麗な皮ブキの屋根じゃ。

正面左側に記帳簿があったので、名前を書きました。

庭園のようなもの。

ここには、朝綱が作ったといわれる風流な庭園が現存している。

京の様式に似せてつくったものらしい。

なんだか騒がしいと思ったら、団体さんが綱神社に来ていた。
なんでこんなマニアックな場所に大型バスツアーしてるんだ?

おそらく益子陶器ツアーの一貫で着ているのだろう。
何十人ものオジサンオバサンたちが宇都宮家の墓を見て回っている!なんておかしな光景だ。ありえない。



説明省略。
そして、ここには宇都宮家代々の墓が安置されている。

全部の紹介は無理なので、戦国期当主の墓だけ。霊魂うじゃうじゃ。

向かって左、16代・正綱公。 右、17代・成綱公



向かって左、18代・忠綱公。 右、23代・義綱公


わんさかわんさか。
奥右側が、 19代・興綱公。
手前右側が、20代・尚綱公。
手前左側が、21代・広綱公。
奥正面が、 22代・国綱公。


歴代当主の墓が建ち並ぶこの場所は、とても明るく、隣は民家だし、ぜんぜん恐く無かったです。霊感ある人は違うんだろうけど。

自分と谷田部で、初代・宗円公から31代当主までひとつひとつ拝んできました。この墓の並びは大体が歴代順です。時々飛んでいますが。


墓の配置は、宗円公を中心として評定の型になっています。
死後、何を評定しているのでしょうね。

一つ一つ拝みおわると、とても満足した気分になりました。少々、肩が重いですが。まさか、31人分、くっついてないよな!
だとしたら、超重量級です。

益子町は、益子家の領地ですが、あの芳賀高定の出身地でもあります。一度訪れようと思っていたので、今回は気合入っていました。

西明寺城では文化財も、変わった城も見られたし、宇都宮家代々のお墓も見られたし、もう陽が傾いてきた。

いつもの事ながら、城攻めを堪能するため、お昼を食べないで三、四時頃まで城攻め。夕方までに帰るというのが我らの正攻法。

だから、一日1城しかできません。


あとは帰ろうかな…























あれ?谷田部越後は…??






















「それいけー!」


アホ!まだやってたのか。
帰るぞ。




かくして、益子の兵はすべて我らの味方になった。

え?城兵の霊には襲われませんでした。ほら、この三つ巴の旗を持っていれば大丈夫。同じ家中ですから。

しかも、次からは顔パスです。この旗はほんと、

便利。



益子・西明寺城攻め 終わり





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