最古の宇都宮城下図発見




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2006年10月6日付の下野新聞に、最古の宇都宮城の絵図が発見されたことが掲載された。

「野州宇津宮之城図」といい、仕様は紙本に着色。大きさは縦82.3cm、横70.9cm。加賀藩前田家伝来の文化財を管理している「前田育徳会尊経閣文庫」(東京都目黒区)に、県立博物館の舩木明夫主任研究員が、2006年3月下旬に同文庫に赴き確認した。

 これまで宇都宮城下を表わした最も古い絵図は、江戸初期1650年頃の「下野宇津宮図」(県立博物館蔵)であったが、それを推測で30年ほどさかのぼる絵図の可能性があるという。

 加賀前田家(前田利家の家系)は、17世紀末から18世紀初頭にかけて全国の城郭の様子を収集し、「諸国居城図」としてまとめたという。今回の絵図もそのうちの一つだと思われる。幕藩体制の中、他家の情報を調べる事ができるのだから、当時、前田家が幕府の重要なポストにいたことが改めて窺い知れる。



この絵図では、城下町、街道、二荒山(宇都宮大明神)なども描かれている。また、城は三の丸が西側に広がっておらず、まだできていない。拡張途中だったのだろうか。二の丸西側の掘も未完である。

そして別件だが、江戸幕府が1631年に宇都宮城の三の丸西側に堀の建設許可を出していた事が「奥平文書」(大分県中津市小幡記念図書館蔵)で新たに発見。という事は、それ以前に本田正純が大改修をしたという江戸初期の頃を描いた絵図だろうか。

この絵図には、櫓がなんと27棟も描かれている。従来の宇都宮城下図では8〜10棟ほどだから、それと比べればいかに堅固な城かがわかるだろう。

このような様式から考えて、江戸初期の関が原合戦〜大阪の陣前後までの期間で、堅固な城の性格が残ったもので、それ以降数年経ったものと推測する。残念ながら、戦国期のものではないだろう。戦国期のものが発見されれば、とても面白いのだが。


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江戸初期頃の宇都宮城略歴。

1597年 宇都宮家滅亡。戦国期の名残のまま浅野長政が預かる。

1598年 蒲生秀行が入城。城郭拡張、もしくは城下町建設開始か。

1600年 関が原合戦。宇都宮城は徳川家康に味方し、対上杉家への前線基地として機能。結城秀康も入城し指揮を執る。この時に、さらに軍事的に堅固な城へ改築した可能性がある。

1602年 奥平家昌が入城。奥平家数代続く。「野州宇津宮之城図」はこの時代前後と推測する。

1619年 本田正純が城主になる。大改修をする。「野州宇津宮之城図」は、この時の改修途中の絵図かもしれない。

1622年 本田正純改易。奥平忠昌が入城。

1628年 徳川家光が日光社参拝のため、宇都宮城に宿泊。

1631年 宇都宮城三の丸西側の堀建設を幕府が許可。従来からあった「下野宇津宮図」はこれ以降の1650年頃に描いたものといわれている。


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 2006年10月14日から開催される「名城 宇都宮城―しろとまちの移り変わり」で展示される。痛み、損傷が激しいため、近年修復され調査されていた。11月3日までの三週間限定で展示なので、まだご覧になっていない方はお急ぎいただきたい。


参考:下野新聞(2006.10.6付)


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