中国「元」時代の「青磁」
佐野城跡で無傷の出土




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2006年8月31日、佐野市は、中国「元」時代の完全な「青磁」が出土していた事を発表した。
 
2004年10月、佐野市若松町の佐野城(春日岡城)跡で行われていた発掘調査で、無傷の器が出土していたものを、2006年5月に国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)の小野正敏教授に鑑定を依頼。すると、14世紀に中国の「元」の時代、龍泉窯系で作られた青磁「不遊環花生」(ふゆうかんはないけ)である事がわかった。


 高さは17.9センチ、胴9センチで小型の花瓶。頚部の輪が竜の形をしている。色あせも無く、無傷での出土は県内では初めてである。小野教授は「国内に伝来する青磁は数が少なく、完全な形での出土は聞いたことが無い」という。
 
調査関係者によると、「土が粘土状だったため、湿度を保ちながらうまく保存されたのではないか」と推測している。
 通常の土器なら破片などで発見されるケースが多いが、今回の完全な形での出土は快挙。栃木県の誇りである。是非、見に行きたい。


 発掘されたのは、東武佐野駅北側に隣接する市道で、道路改良工事に伴う第17次調査で、幅1m、深さ50〜70cm、長さ18mの溝状遺構から。
 
ここは佐野城跡の一部で、1602年に佐野信吉が築城、1607年に唐沢山城から移転し居城とした。しかし、12年後の1614年に改易され城も取り壊された。青磁はその間に使用、埋没した可能性が高い。
 
佐野信吉は、豊臣系大名の富田家から佐野家に養子に来たため、秀吉周辺の人物とも親交が深かっただろう。よって、青磁を所持していた事は容易に推測できる。
 
改易についての理由は、当時の宇和島藩主であった兄・富田信高が、坂崎直盛との争いが原因で改易され、弟の佐野信吉もそれに連座して改易となったという。家康にとっては、豊臣恩顧の大名を廃する良い事件だったのだろうか。

 佐野市教育委員会は、同市の文化保護審議会指定を諮問し、佐野市郷土博物館で10月中にも一般公開する予定。
 また、「青磁を所有できた当時の権力者や、佐野開城前の歴史などを知るうえで貴重な発見。城跡の下層部には、中世寺院の遺構や遺物が残されている可能性が高まった」とも話しているそうだ。



 佐野城を中心として、碁盤の目状の街づくりは1600年に完了、佐野は城下町として栄えた。現代の佐野市街地の町並みを作ったともいえる佐野信吉時代の活気、そして数年での改易。おそらく、その一切をこの青磁は見ながら地中に埋没したのだろう。
 数百年の時を経て、闇の中から現代に再び現れたこの青磁は、果たしてどんな「佐野」を私達に映し出してくれるのだろうか。これに問い掛ければ、答えが跳ね返ってくるような、実に美しい表面をしている。私も当時の佐野の風景を教えてもらいたいものだ。



参考:下野新聞(2006..1付)

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