唐沢山城を国指定史跡に申請
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 佐野市教育委員会は、下野国の大城である唐沢山城(栃木県佐野市)を国指定史跡にすべく、2013年7月中に国に申請するとの旨が産経新聞(6月28日付け)に掲載された。 「これから申請する!」という状況である。 ・唐沢山城 主郭の石垣 唐沢山城は戦国時代、佐野家の居城として整備、拡張されて使用されていた。広大な面積を有し、北関東では宇都宮家の多気山城(宇都宮市)と肩を並べるくらいの面積を誇る。唐沢山城は山伝いの各方面、尾根部分の先に防御施設や見張り台も設置している。まだみつかっていない遺構も山中に存在する可能性も高い。それも含めると、多気山城よりも広い範囲が城域となる。 関東では八王子城の広さに次いで2位であるが、北関東では間違いなくトップである。また、広さだけではなく構造的にも優れていて、大堀切、大胆な縦堀、上杉家に組していた時の上杉時代の遺構や、北条家に組していた時の北条時代の遺構など、随所に多彩な遺構が見られる事も興味深い。 上杉謙信や北条氏政らの強敵の攻撃を受けても落城しなかった事を考えれば、戦国時代の名城と呼ぶにふさわしい。しかし、それを守備していた佐野家の武力も無視してはならない。守る兵士が惰弱ならば当然に城は落城することは言うまでもない。事実、剛勇で知られる(有名?)佐野房綱(了伯)や山上道及らも佐野家中である。 ・藪の中にも家臣団屋敷跡がある。 ・屋敷跡にある石積みの一部。 平成20年(2008年)から調査された大規模な家臣団屋敷跡(根小屋地区)も申請に拍車をかけたのだろう。事業費は約9000万円也。 城跡のすぐ直下の藪中に屋敷跡があり、段々の建物を立てられそうな区分がある。しかし、一つ一つのスペースは狭い。また、所々に石積みが見られ、屋敷の区割りや階段のような石積みもある。この石はもろく崩れ易い。これと同じ石は、佐野地方、足利城、群馬県の太田金山城あたりの両毛地区で見られる。この周辺の城に使用されている石は共通して脆く崩れ易い。 また、唐沢山城跡の眼下に広がる住宅地や田園も含めて、往時はもっと広範囲に家臣団屋敷もあった。 このように、山上の城郭は四方の尾根伝いに広く伸びており、城下の家臣屋敷も広範囲であった。豊臣時代の石高から考えて、戦国時代の領地も4万〜5万石だったとすれば、大きすぎる城である。上杉、北条の猛攻にさらされた佐野家が生き延びるには、このような大規模な城郭にする必要があった。 しかし、北関東自動車道の建設時に壊された巨大な縦堀は惜しかった。唐沢山城の見所の一つでもあったし、なぜ城跡にわざと道路を架けるのだろうと残念でならなかった。その前に申請していれば良かったのにと思う。 佐野市ホームページの「国指定史跡化への取り組みについて」を閲覧した。それによれば、平成17年(2005年)、佐野市の合併(旧佐野市、旧田沼町、旧葛生町)後、平成19年の事前調査、次いで同20年〜24年の調査を経て申請に至った。 ※国指定史跡となっている栃木県の城跡
2013年秋の文化審議会を経て、年度内に国指定史跡となる見込みだそうだ。これが成れば、佐野市ではじめて国指定史跡となる。これによって、もっと「城跡」が有名になるだろうか。 |