宇都宮国綱の書状発見





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 宇都宮国綱の書状2点が新たに発見されたとの記事が下野新聞に掲載されていた!以下、下野新聞の記事も参考にして紹介する。
 これは旧家から発見されたもので、約6000点もの古文書のうち、宇都宮国綱の書状が2点含まれていたという。それは次の2点。

・西方綱吉宛の書状。

・西方家臣宛の書状。


 まず、西方綱吉宛の書状について。
 調査した専門家によると、小田原の北条家が次々と落として宇都宮領に迫る状況の中、天正13年(1585年)に宇都宮国綱が西方綱吉に出陣の要請をしたものという。
 西方家は宇都宮一族で西方城主であるが、戦国時代には織田信長と親交を持つなど独自の動きも見せている。宇都宮家から見れば飛び地的存在になるも領主として存続していたようだが、戦国時代、宇都宮家や周辺との関係などはよく分かっていない。

 しかし、今回の出陣要請の書状が発見された事により、少なくとも天正13年は宇都宮方として動いていた事がわかる。そして、北条家が迫り来る状況。天正13年の北条家の攻撃の前に皆川広照は降伏し、宇都宮家を攻める先陣を務めた。国綱からの出陣要請の書状はこの時に出されたものと思われる。2行目に「南方―皆川」という文字が見えるのは、南方(北条家)に皆川家が降伏し、西方城へ攻めてくる状況を述べているのであろう。
 こののち西方城は落とされてしまうのだが、「下野国誌」によると、天正1312に宇都宮家の大軍勢が多気山城に入城して北条家に備えたとある。歴史が繋がった。
 なお、宇都宮国綱から西方綱吉への書状はこれまで無かった。



 もうひとつの書状、西方家臣宛の書状について。
 専門家によると、西方家臣の2人に宛てた書状という。
 下野新聞の写真を見たが、前半は文字が滅していて判別不能な部分が多い。「三沢」と、「中新井因幡」の名があるという。自分は解読能力が無いためか、「三沢」の文字がみつからない。
 この書状は感状か官途状であろうか。いや、感状などならば二人別々に出すだろうから、ある場所を守備せよという指示だろうか。
 三沢とは、今回調査した旧家と同姓であるから、旧家の方のご先祖と思われる。西方家臣の三沢広重と同族であろうか。また、中新井因幡守も西方家臣のようだ。現在、西方綱吉からの官途状が残っている中新井主水丞と同族であろう。

 宇都宮国綱の書状は現在約100点あるが、今回の書状にある花押は国綱のものとしては大変珍しいもので、原本が茨城県筑西市の千妙寺に一点、写しが秋田県公文書館に一点あるのみという。期間としては天正6年(1578)〜天正9年(1581)頃のものではないかとしている。すると、家督を継いだ頃の少年期に書いた書状であろう。
 後年に西方綱吉に宛てた書状よりは、こちらの花押の方が簡素に見える。文字の大きさも定まらず、縦の線も少しゆがんで書いてある。やはり少年期の書状ゆえか。

 これからも新発見の史料がみつかる事を節に願う。



 参考、下野新聞2009.5.22付け

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