川崎城跡公園を再整備






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 川崎城(矢板市川崎反町館ノ川)の城跡公園が、再整備されることになった。これは、2008年に市制50周年を迎えた矢板市の記念事業の一環として行われる。
 
1986年に城跡公園となったが、その後は整備を怠っていたようで、針葉樹が茂っており、あやしい雰囲気をかもし出している。道も草で覆われていて不鮮明。写真を見ていただければお分かりだろう。人がほとんど寄り付かないという。外から見ても、木がぼうぼうで良く分からない。判別できるのは、「川」「崎」「城」「跡」という立て看板が城跡公園の山に張り付いている程度であろうか。
 実際行ってみて、これほどひどいとは思わなかった。


・川崎城本丸南側の堀。草木が生い茂り、遺構も不鮮明である。
※写真は「野州攻城記」管理人δ様のご提供。添付、転載など一切禁止



 これを整備するため、市民主体による「川崎城跡公園再生市民会議」が2007年初頭に募集がかけられ、同年5月に設立。「市民力を結集し、川崎城跡に新たな光を」を再生テーマに、城跡再生計画策定から整備までを行う。以後、精力的に運営会議を開いている。
 市民と一緒に公園を再生し、親しみやすく、多くの人が訪れるようにしたいという。

基本方針は以下の通り(矢板市HPより)。

・川崎城跡公園の歴史的な背景を基本とし計画を作成します。

・四季折々の眺望と花を楽しみ、多くの市民に愛される魅力ある公園をめざします。

・城跡のすばらしい遺産を市民の手により後世に向かって守り育てます。

・歴史と自然を活かし多くの市民が参加できるイベントをめざします。



 また、基本計画案をのぞいてみると、課題多し!
 各郭の整備はもちろんの事、駐車場の設置、老朽化したベンチや遊具の撤去、園内の歩道の整備、植樹や伐採での景観眺望の整備、案内板の設置などなど・・・。
 飛山城(宇都宮市)や皆川城(栃木市)も視察しているらしい。両城は良好に()整備されているから、手本にするには良いだろう。
 2008年度から3ヶ年で整備するという。がんばってほしい!
 また、一部は里山として再生させるというが、成功するのだろうか。
 事業費は3500万円。城跡公園の広さは6.7ヘクタール。私には、この費用は相当安く見えるが、みなさんにはどう見えるだろう。これは、市民の協力無くしては出来ない事業だと思う。


 また、同公園再生市民会議によって、2008923日には公園イベントが企画されている。約2000個のペットボトルを使用した「あんどんまつり」、野点、特産物の販売、太鼓、オカリナ、フルート演奏などを開催する予定。「あんどんまつり」は皆川城址公園でも行われているので、これを手本にしたのだろうか。
 あんどんの作り方は、上部を切り取ったペットボトル(1.5L2L)の下に少量の砂を詰め、ろうそくを入れ火を灯す。夜の公園に2000個ものあんどんが灯れば、美しい光景が目に浮かぶ。
 夏の終わり頃の祭りとして、なかなか良いではないか。
 果たして、矢板市民の反応はどうだろうか。


 再生計画が固まり、動き出したこの事業。本当に大変なのは3年後に整備が完了してからである。宇都宮城址公園にも言えることだが、公園として永代に渡り機能するには、景観、設備を維持する団体、維持費の捻出、定期的なイベントの開催などを精力的に行わなくてはならない。これらを怠れば、また人が寄り付かなくなる公園になってしまう。


・二の丸上の郭から、二の丸下の郭を見下ろした所。向こうへ階段があるが、全く見えない。草木のために、これ以上進めない。
※写真は「野州攻城記」管理人δ様のご提供。添付、転載など一切禁止



 川崎城跡公園では、市民主体の
「川崎城跡公園再生市民会議」が維持団体として継続し、そして矢板市がそれらに協力、監督してゆくのが望ましい。自治体の財政厳しいこの御時世、自治体だけで公園を整備するのは困難。それよりも市民主体の活動の場として位置づけ、市民団体が積極的に動いていくべきである。
 費用3500万円をつぎ込んだ歴史的史跡の再生事業。地元の歴史を語り継ぐ事にもなり、市民の地元を愛する心を育むにとても有効なことだと思う。これをどれだけの市民に理解してもらえるだろうか。
 がんばれ、矢板市、矢板市民!!




・参考 栃木県矢板市ホームページ、読売新聞(2008531日)より。


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 川崎城  早わかり簡単説明。

 別名、塩谷城、蝸牛城とも呼ばれる。昔は遠方から見ると、カタツムリや巻貝のように見えたのが特徴的。実際、連続する郭を旋回しながら主郭へ行く構造になっている。

 東北自動車道の建設によって、三の丸の一部などが破壊されているが、公園として整備した事もあり、空堀や急な土塁の傾斜など、遺構は比較的良好に残り、お城ファンを楽しませてくれる。

 当城は、鎌倉初期に塩谷朝業の築城に始まるとされる。清和源氏の塩谷家(堀江家)は御前原城に拠ったが、宇都宮業綱の次男・朝業が入嗣するに至り、川崎城を築城。以後、宇都宮家の一門として活躍した。
 また、塩谷朝業の次男・時朝を笠間城(茨城県笠間市)に入れ、宇都宮家の勢力拡大に寄与する。現在、矢板市と笠間市が姉妹都市関係にあるのは、この事が機縁なのであろう。

 室町時代の応永30年(1423年)に塩谷教綱は、主君・宇都宮持綱を暗殺してしまう。しかし、教綱は長禄2年(1458)に宇都宮城で暗殺される。これにより塩谷家は一時絶えるが、戦国初期に宇都宮正綱の4男・孝綱によって再興される。
 戦国時代は塩谷由綱と弟の孝綱の対立で、塩谷由綱は夜討ちされ自害、川崎城も落城してしまう。数年後に塩谷由綱の子・義綱が返り咲くが、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐時に叛心ありと疑われ、改易されてしまう。その時、川崎城も廃城になったと伝えられる。


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