壬生城「元禄の大改修」
を示す史料確認




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 壬生町歴史民俗資料館は、2008121日までに、これまで伝説とされてきた壬生城の「元禄の大改修」を裏付ける史料を確認した。
 史料は、当時の城主・「松平輝貞」が、改修責任者である御城御普請惣奉行・「山本十左衛門」に宛てた指示書で、静岡県沼津市在住の山本家のご子孫が2004年末に壬生町に寄贈し、同資料館が調査していた。


 資料館によると、松平輝貞の花押もあり、差出人は松平本人という。宛て先の山本の名もある。
 1693127日〜翌年1011日までの22通で、縦が約18cm、長さ約20mの巻物2巻になっており、200件にも及ぶ松平からの指示が書かれている。
 内容は、城の東部分と本丸の一部の改修である。
 街道に接している東部分は、二階建ての櫓門、弓形堀の深さ、土塀の高さ、構造などが記されている。
 新設された弓形堀は、現在の足利銀行壬生支店の西側辺り。
 また、本丸御殿への出入り口が、それまでの南東方向から南北の
2箇所に造りかえられている事も新たに判明したという。


 大改修以前に描かれたと思われる、高崎市立図書館所蔵の壬生城絵図には、東側の門を出ると、道があるのみ。


 大改修後に描かれたと思われる、壬生町精忠神社所蔵の壬生城絵図には、東側の門を出ると、すぐ前に弓型の堀があり、そのどちらか両側から通って街道に出るという構造になっている。馬出しのような構造だ。
 また、南側にも整備したと思われるものがある。

 これまで元禄の大改修は、古い文献に「元禄年中、東郭を築かれ大手門を建てられたし」という表記があるだけで、史料的に裏付けられる事はなかった。
 壬生町立図書館に勤務し、壬生城研究を続けていた方は、「江戸中期の城郭改修を示した史料でもある。壬生城は徳川将軍が日光東照宮御成りの際のルート。城の東部を改修し、藩の威勢を示すためのものだったのだろう」と見ているという。


 今回、壬生町歴史民族資料館は、「壬生城郭・城下図」の改訂版を発刊した。
 改訂版は、平成7年の初版以来
3版目。以前よりあった、精忠神社所蔵の壬生城下図と、現在の都市計画図(縮尺図25000分の1)に複合させた壬生城下の2枚に加え、町職員の方が書かれた壬生城改修の論文を盛り込んだ解説書を添付。同館で1000円で販売している。


・以上、
2008122付け「下野新聞」を参考、補足。200829付け「栃木よみうり」から参考、追加。



 今回の調査で、伝説が史実になったといってよい。
 個人所蔵で眠っている史料はまだまだたくさんある。こういった史料を世に出し、調査することが新たな歴史の発見につながると思う。
 昔ながらの旧家や、古い蔵をお持ちのお宅は、是非漁っていただきたい。歴史の通説を変革するほどのお宝が、スヤスヤと眠っているかもしれない。



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番外編

・松平輝貞 16651747


 徳川綱吉、吉宗の側用人。高崎藩主。武蔵川越藩主・大河内(松平)輝綱の六男。従四位下侍従。右京大夫。


 領地は、摂津国、河内国内下野壬生上野高崎越後村上上野高崎と、めまぐるしく変わった。
 1674年に武綱と名乗り、1682年に元服し、輝貞と改名。松平信興養子・松平斐章の廃嫡により、1691年に家督を相続。
 家督相続以前より徳川綱吉の小姓、御側衆として仕え、側用人になる。また、幾度か加増を受け、最終的に72000石を安堵される。

 壬生城主を務めたのは1692年〜1694年の3年間で、1693年から大改修を行った。

 しかし1709年に、徳川家宣が6代将軍になると、綱吉の側近を排除したので、輝貞も側用人を免職され、越後の村上に左遷された。
 徳川吉宗が8代将軍になると、1717年に輝貞は復帰し、高崎に封ず。同時に家格を溜詰格に昇格させた。さらに1730年には老中格に任命される。
 1747年死去。戒名:天休院殿節翁道義大居士。墓地:東叡山明王院(東京都台東区)、のち平林寺(埼玉県新座市)に改葬された。


 以上、出典:フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia』を参考。



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