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小山城で「瀬戸天目茶碗」出土



 小山城跡(小山市城山町一丁目)本丸付近で、十六世紀後半の戦国時代のものとみられる茶道具「瀬戸天目茶碗」が一個発見された。
 瀬戸茶碗とは、美濃国(現・岐阜県)瀬戸でつくられていた焼物である。その中に室町時代以降、盛んにつくられた「天目茶碗」がある。はじめ、東海から関東に多く、次第に京や堺に広まり、そこから西日本にも広まった。当時の生活雑器である。

 これは、2005年3月12日に、小山市教育委員会が開いた現地説明会で明らかにしたもの。

天目茶碗は、直径が約12cm、高さ約7cm。全体に、あめ色の上薬がほどこされ、一部が欠けているものの、ひび割れはほとんどない。茶碗の内側には、茶せんで擦れたとみられる跡も残っているという。

 県内で茶道具がほぼ完全な形で発見されるのはほとんど無いというから、これは大変な重要事項である。

 発見現場は、小山城絵図(広島市中央図書館所蔵)に描かれている本丸南側にある三の丸周辺。その深さ約1.7mの穴の中から、さかさの状態で発見。

 城跡で発見される天目茶碗は、破損してかけらとなったものがほとんどで、県考古学会の塙静夫会長は「完全な状態で残っているだけでも珍しい。瀬戸地方から当時、茶道具が県内にも伝わっていたことを裏付けている」と話す(下野新聞より)。

小山市教委文化振興課は「発見場所が本丸にも近いことから、小山氏の中枢にいた人物が所有していたのではないか」と説明している(下野新聞より)。

記事によると、瀬戸茶碗は当時、大変高価なものとされているという。しかし、天目茶碗とは、本来芸術品として作られたものではなく、生活雑器であるから、それがどのくらい高価なものか、私には良くわからない。

この「瀬戸天目茶碗」の経緯について、少々私の考えを述べる。

戦国後期のものと見られるから、元亀、天正年間あたりだろうか。

私は、小田原の北条家からの流れで「瀬戸天目茶碗」が小山城に行き着いたと思う。

下野小山家は、古河公方や北条家と関わりがあったから、小山家の所持品可能性もあろう。だが、海の交通が盛んだった強大な北条家なら、瀬戸茶碗を持っていることは、なんら不思議ではない。

 現に、八王子城をはじめとした北条領の各城から大量に天目茶碗が出土している。瀬戸茶碗は、東海地方から関東南部あたりを中心に多く流通していた事から、
北条家による影響と考えたほうが可能性は高いと思う。

1574年に小山秀綱は北条家に降伏している。そのあとに小山城に入った北条の武将のものだろうか。ひょっとすると、八王子城から北条氏照が持ってきたものかもしれない。


 茶碗は、小山市教委文化振興課で保管する予定で、希望者に公開するほか、今後、小山市博物館で展示するという。

 発掘調査は小山城跡の公園整備に向け、2003年度から実施している。これまでに別の場所から、発掘現場では全国的にも珍しい中世の仏法具も、ほぼ完全な形で発見されているという。

このように、小山城の発掘作業に期待がかかるが、その前に公園整備をやめてほしい。小山城は、明瞭な堀など城の遺構が奥にたくさんあるので、それらをできるだけ原型のまま保存していただきたい。


※2005年3月13日の下野新聞に、この詳細が掲載されています。

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