龍臥山城 りゅうがやまじょう (栃木県日光市上鉢石町)
龍臥山城は日光市上鉢石町の字「龍臥」にあった。
鳴虫山から北東に伸びる尾根の先端に位置し、龍臥山(りゅうがさん、りゅうがいさん)、龍崖山、要害山などと呼ばれる。いずれも要害が訛ったものであろう。城からの眺望は抜群で、宇都宮方面から来る敵軍を真正面から監視できる。 現在の日光街道(国道119号)は江戸時代に直線的に整備したもので、上鉢石町に道は無くて山だった。下鉢石、中鉢石町の道は、中世の街道は多少歪曲していたであろうが、おおよそ宇都宮方面から日光に登るルートを監視できる眺望であった。
鉢石山観音寺の裏手に大悲殿千手観音堂があり、さらにその上に登ると城の中心部に至る。おそらく千手堂も城の入口になるだろう。 この場所は星宮に抜ける山上の道があった。城跡を利用して関所のようなものが置いてあった可能性もある。また、堀切の部分は、星宮に抜ける古道だと紹介する書籍もある。その可能性はあるが、一応ここでは城としておこう。
見学にご注意
当サイトでは前に掲載しましたが、ある理由で場所を非公開にしていました。そして、2024年に「日光市の城館跡2」が発刊され、そこに要害山城という名で掲載されました。この発刊を待って、当サイトでも場所を公開させていただこうと思っていたので今回アップした次第です。
さて、この城跡を見学する際は注意が必要です。当方で非公開だった理由は、「金谷ホテル」さん、「星の宿」さんという2つのホテルの隣に位置するという事。なので、城の西側には行かないようにお願いいたします。ホテルやお客様に迷惑がかかってはいけません。これについて問題が起きても当方は一切の責任を負いません。 この山は観音寺の持ち山で、千手堂や神社もあるし、散策程度なら問題ありません。しかし、西側へは行かないでください。お願いいたします。
私が縄張図の西側を調査したときは、ホテルに了解をいただき、従業員の方に同行してもらいながら踏査しました。お仕事中に申し訳ありませんでした。ご協力いただきまして感謝申し上げます。
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龍臥山城(日光市) 縄張図
城の構造について
主郭Iは変形した台形で、天照大神と八坂神社が祀られている。その周囲には4筋の尾根が広がり、一方は裏山との間に堀切があり、他の3筋は麓まで続く尾根で、腰曲輪や虎口などが付属する。基本的に単郭の城である。 主郭と背後の山との間に幅4m、高さ2mほどの堀切が1条ある。山側に電波施設のような建設物があった跡があるが、現在は取り壊されている。その上の山は自然地形となっている。 主郭東側の腰曲輪の直下に竪堀のような溝があるが、これは墓地や脇から登る道で、竪堀ではない。
3筋の尾根にささやかな遺構がある。 ・北西側には虎口のようなものがあり、そこから歪曲しながら下る尾根が伸びる。その先は自然地形で、先は岩場(岩座?)となっている。こちらは、ホテル「日光 星の宿」の敷地なので立ち入り禁止です。観音寺によると、昔は道があったという。確かに、観音寺から星宮へ抜ける道があり、もしかしたら関所のような役割を果たしていたかもしれない。
・北東の尾根には細く伸びた尾根の下に小規模な2段の曲輪がある。その下は急激に尾根が下っている。
・東の尾根は比較的大きめなスペースであるが、下の観音堂から登ってくる道によって削られているなど改変があるか。現在は刈った草を運ぶレールがあるので注意されたし。
城の遺構はささやかで、下界からの比高は40mしかないが、北と東は急な崖となっているため要害性は高い。西側は日光修験道が通り、江戸時代前期に山を崩したのでなだらかな中腹が広がる。西の斜面は防御度が低いので、こちらからの侵攻はあまり想定していないと思われる。昔は上鉢石町まで山が伸びていた。 東側にある観音寺の場所は、中世に同寺の前身である栄蔵坊があり、寺の裏山に城を築いて守っていたのだろうか。これを見たときは、日光山に近い場所に城郭があった事に驚いた。もしくは、麓の山中奉行・杉江家の管轄か。
さらに、当サイトでは大舘野城と称しているが、大谷川北側の所野にも城があった。あっちは造りが違うが、もし前身は日光山の城だったとすれば、寺社勢力の日光山中心部に近くに城があった事になる。他にもあるかな?最近、日光で意外な場所に城が発見されていますので、お城研究者の方々の功績大ですね。 古文書発見によるものでなくて、城跡発見によって研究が進展するのって面白いですね。そして、これを裏付ける史料がみつかれば尚よし。
まとめ
可能性として。これは史料がみつからないと全く分かりません。が、一応列挙。
1、日光山管轄の関所、城 2、修験ルートを管理する施設 3、観音寺持ちの砦 4、山中奉行・杉江吉房の関所、城
こんなもんでしょうか。あとは皆さんでご自由に。 どの場合でも、結局日光山の管轄となってしまいますね。1500年代に座禅院が鉢石の道整備を指示していますし、鉢石町での市を座禅院が了承しています。鉢石あたりは日光山の管轄下です。 あ、でも、厳密に言うと日光山内でも上、下あったり、各寺院で違いますからね。以上4つの可能性を挙げさせていただきます。
付記、 観音寺について
創建は弘仁11年(820年)、空海による開基とされる。現在は天台宗で鉢石山無量寿院観音寺と号す。
空海作の千手観音菩を現在の千手観音堂に安置したのが始まりで、中世は真言密教の寺院で「栄蔵坊」といった。末寺に宝珠院、円長坊、真乗坊、守蔵坊、安養坊、宝蔵坊の6坊があったが、現在はいずれも廃寺でいくつか伝承地が残るのみ。末寺は寺下の広範囲にわたって配置されており、その一帯が門前町となっていた。このあたりは坂本と呼ばれ、現在の中鉢石町とされる。「東路のつと」によると、連歌師宗長が坂本に訪れ、まるで京や鎌倉のような賑わいであったと記録されている。 天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原合戦時には小田原城主・北条家に味方したため、日光山は寺領の大減封を受けた。それに伴い、栄蔵坊も減封され、末寺は宝珠院と宝蔵坊に減ぜられた。
元和3年(1617年)日光東照宮の鎮座により、街の発展、街道が整備され、栄蔵坊は町の菩提寺として復興した。寛永4年(1627年)南光坊天海より鉢石山無量寿院観音寺の三号を賜り天台宗に改宗、日光山輪王寺の末寺となり現在に至る。
城周辺の地名についてここでは、城の他、周囲の歴史や地名について調べた事を記載します。
龍臥山この山は龍臥山、龍崖山、要害山などと呼ばれ、城あたりの字名も龍臥という。いずれも要害がなまったものであろう。もともと天嶮の山ではあったが、城があったゆえに、要害=龍臥になったと解したい。江戸時代初期に上鉢石町ができる前は、龍臥山から山続きで、もっと北西側に山が広がっていた。これを切り崩して、現在の上鉢石町を造ったという。現在見られる麓の町並みや、「日光 星の宿」や「ステーキハウスみはし」あたりは切り崩してできた中腹だと思う。山が無くなった事により、現在のまっすぐな日光街道が作られ、日光橋を渡って日光山内に入れるようになった。しかし、龍臥山城の遺構は残った。レンガ沢これは龍臥山の南の沢で、観音寺あたりを流れている。変な名前だなと思った。おそらく、レンガ製造にかかわるものではない。「龍臥沢」が「レンガ沢」に転訛したというのは私見であるが、多分、そうだと思うんだよな。日光山中奉行 杉江播磨守吉房戦国時代、壬生家より座禅院昌淳が日光山に入山したときに従った「杉江播磨守吉房」は、鉢石町に来住し日光山中奉行をつとめた人物である。杉江家は江戸時代に名主、兼問屋をつとめた。杉江家屋敷跡は現在の澤本うなぎ屋から杉江理髪店あたり一帯にあったとされるが、戦国時代と江戸時代では場所も形も若干変わった可能性もある。ざっくりとした範囲でしか分からないが、奉行の屋敷ともなればかなり広かったと思われる。そして、そのすぐ頭上には龍臥山城がある。戦国時代は、観音寺の坂下に奉行・杉江家の屋敷がドーン!と構えており、さらにその西側の上鉢石町あたりは山だった。ゆえに、現在の日光街道のように真っ直ぐに進んで日光橋を渡るルートは無かった。各書籍には観音寺の坂下で道が2つに分かれると記述される。私が考えるに、それに付け加えて杉江家の奉行屋敷があった所から2つのルートに分かれるという記述の仕方も重要なのではと思う。観音寺の砦かとも述べたが、龍臥山の城(関所か)は奉行に関する施設で、山上にて監視、管理していたとも考えられる。城は奉行管轄の可能性があるが、それより以前からあったかもしれないし、杉江家が入る前に別の奉行がいた可能性もある。結局のところ、推測でしかないです。何か史料がみつかれば良いですね。日光山へ入る2つのルート中世の日光山内に入る場合、東から来るルートは二つあった。1つ目は、観音寺の坂下から北西に進み、会所という場所から大谷川に入って対岸に着き、現在の小杉放菴記念日光美術館の辺りから本宮を経て日光山内に入るルート。通常はこちらがメイン。2つ目が、観音寺の坂下から龍臥山によじ登り、千手観音堂の裏手に行き、龍臥山(城?関所?)を通り、その先の星宮に抜ける。そこから山菅橋(神橋)を渡り、日光山内にたどり着くルート。山菅橋は一般人の通行は不可。通行できるのは神官、僧、高貴な人物、特別に許可を取った者。こちらは主に修験関連のルートであろう。しかし、大谷川が増水して渡れない場合は龍臥山の道を通る。以上の2つのルートがあったが、江戸時代前期に龍臥山の中腹を削り、街並み、街道を造成して上鉢石町を形成したという。この工事は仙台伊達家が担当したという伝承がある。その北側に削った山土を埋め立てて平地を増やし、大谷川の流れを少し北側に寄せて現在のような形となった。よって、上鉢石町、中鉢石町の北側あたりは埋め立て地があるようだ。修験ルート龍臥山城は山岳信仰に欠かせない修験ルートの横にある。そして、龍臥山に登る道は修験、寺院、神社関連の人物が通ったとされる。この修験ルートというのは金谷ホテル方面にあり、鹿沼、日光の峰々の宿(御堂)で修行し、金谷ホテルの裏山から下って、金谷ホテル駐車場脇の「星宿」で最後の修行をし、神橋を渡って四本龍寺にゴールする。このルートは城の脇なので城内は通らない。なので、城と修験道の関連があるかは分からない。もっと他のルートがあったのだろうか。「坂本」について龍臥山城下の鉢石あたりは坂本と呼ばれていた。観音寺の坂下あたり故と考えられる。連歌師宗長の記した「東路のつと」に、「坂本」という場所は京や鎌倉のように賑わっているとの記述がある。書籍『日光東照宮の成立−近世日光山の「荘厳」と祭祀・組織−』によると、「坂本」の場所は、街道、街並み、市の立っていた場所あたりから考えると、おおよそ現在の中鉢石町あたりと推測されるという。また、1500年代、座禅院昌顕や昌?が鉢石下の街道整備を指示している。天正4年(1576年)10月には座禅院昌忠と徳節斎周長が、小田原外郎家の宇野藤右衛門尉に外郎の独占販売を認可した。これらの事から、坂本(鉢石町あたり)は日光山の管轄に置かれていたと考えられる。完結ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
以前の記事 ○○城(日光市)
日光市に、「城郭大系」や「栃木県の中世城館跡」には掲載されていない城があったので紹介する。 日光市は合併されて、とてつもなく大きくなった。ほとんどが山岳地帯。 その中の一筋の尾根に城跡があった。まだまだあるのかな…山が多すぎる。 色々調べきっていないので、スケッチ程度の画でアップ。
縄張図(日光市の城)
主郭はやや細長い型で周囲には4筋の尾根が広がる。一方は裏山との間に堀切があり、他の3筋は腰曲輪や虎口が付属する。 主郭と背後の山との間に幅3m、高さ2mほどの堀切が1条ある。山側に電波施設のような建設物跡があるが、現在は取り壊されている。その上の山は自然地形である。
3筋の尾根にささやかな遺構がある。 ・(A)には虎口のようなものがあり、なだらかに下る尾根が伸びる。
・(B)の尾根には細く伸びた尾根の下に小規模な2段の曲輪がある。その下は急激に尾根が下っている。
・(C)の尾根は比較的大きめなスペースであるが、下から登ってくる道によって中心部が削られているなど後世の改変があるか。往時のままではないと思う。また、城の側面に竪堀のようなものがある。これは下から登る道にも見えるが、急すぎるため竪堀だろうか。
この城について 規模は小さい。ほとんど単郭で、周囲に段曲輪などがある。 立地場所は極めて重要地である。とても見晴らしの良い好位置にある。
こんな規模では本格的な籠城戦はできないが、見張りとしては最適である。すんごい遠くまで見える! あと、周囲は崖のように急な斜面なので、少しなら持ちこたえる事はできるか??いや、裏山から攻められたら一発アウトです。 背後から攻められる前に逃げましょう。
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