小山家当主列伝
――――――――――――――――――――――――――――――
小山 成長 おやま しげなが 146?〜15??
小山家当主。小山祇園城主。山川景胤の長男。梅犬丸。小四郎。下野守。大永年間卒。法名・令賢孝伊。
小山持政は、嫡子・氏郷と嫡孫・虎犬丸に先立たれており、梅犬丸(のちの小山成長)が養子に入った。
梅犬丸は、小山系図に「実ハ山川景胤ノ子」とあり、小山家重臣である山川家の出自である。この梅犬丸の小山家への入嗣は、小山家中で有力だった実家の伯父・山川景貞の影響が多分にある。
この頃、小山家督に発言権の大きい結城成朝は死去しており、子の氏広は幼かったため発言できるはずがない。対して山川景貞は40歳代。権勢を振るうには良い年代だ。山川景胤の子も養子に適切なくらい大きかったのだろう。
犬梅丸の入嗣年月について、書状により判断すると、
1487年2月、古河公方・足利成氏が小山家宛ての書状に「小山梅犬丸殿」とはじめて小山姓で登場する。おそらくこの時までに入嗣したのだろう。
また、入嗣か元服の際、犬梅丸が白河直朝に対して「御祝言として馬一疋送り賜り候。目出祝着の至に候」と申し送っている書状も残る。
元服後、小山成長と名乗る。「成」の字は、足利成氏から一字を拝領したものだろう。
この時期は、足利成氏と管領上杉家も和睦し、さらに成氏と幕府も和睦していたから、関東の先の大乱は治まっていたので比較的安定していた。成長はこのような時期に小山家を継いだ。
しかし、1487年になると、上杉家中に内紛が生じる。この内紛に対し、足利政氏の蝙蝠の様な対応に不満を覚えた子の高基は、政氏と対立し、古河公方にも内紛が勃発した。古河公方・足利政氏と、子・高基の争いである。この争いで小山家は、佐竹家や岩城、白河家らと共に成氏側についた。
足利政氏が小山家に宛てた書状がある。延徳の頃1490年前後「所帯方の事、注文のごとく成敗相違あるべからず候」という、所領安堵を受け、また永正元年に武蔵立川原合戦に際して、政氏から援軍の派遣を要請されている。
このことからも、小山家は足利政氏から、かなり信頼されてきたことが伺える。
高基側には、宇都宮はじめ関東の旧族など多くが味方についたため、政氏は、「高基不孝のところ、関東の諸士同心に不儀を企て候条、是非に及ばざる次第に候」と感嘆し、永正9年6月、小山城に入城した。
成長は、佐竹家の岡本竹隠軒に書状で、佐竹義舜の出陣を促すなど、必死に政氏のための活動をし、劣勢を挽回しようとした。
永正11年7月、足利政氏は成長や、佐竹義舜、岩城由隆らに命じて、高基らの中心・宇都宮城や古河城を攻撃させたが、逆に大敗を喫してしまう。
高基方の優勢が次第に増し、高基は古河城に入ってから、実質的な古河公方としての地位を築きはじめていた。
永正13年、危機的な状況の小山家は高基側に転ずる。このとき、政長と政長のあいだで意見の対立があったようで、おそらく政長の意見で高基方についた。
その後すぐに嫡子・政長に家督を譲り出家したらしい。
入道して孝伊と名乗る。1521年から1531年辺りまで生存していたものと思われる。
――――――――――――――――――――――――――――――
小山 政長 おやま まさなが 1498?〜15??
小山家当主。小山祇園城主。小山成長の長男。小山七郎。政昭。右京大夫。修理大夫。享禄年間卒。法名・大雄存悦。
父の成長が、古河公方・足利政氏への忠誠度から言って、政長の「政」はおそらく古河公方・足利政氏の編諱だと思われる。
古河公方・足利政氏と高基の争いで、当時劣勢の政氏側についていた小山家を高基側に転じさせ、家名を保った功がある。
政長が主張を通さなければ小山家はどうなっていたかはわからない。悪ければ所領が格段に減少していたはずだ。その功は大きいと見てよいだろう。
だが、政長の活動はほとんどわかっておらず、どういった人物かを掴むにはとても難しい。
当主についてからの活動期間は、永正半ばから享禄年間辺り(1510年〜1521年)までか。
高基に帰属してからは忠誠を誓い、高基の立場を堅持している。
父・成長は病だったのだろうか。湯治をはかっている。また、自身と妻子、被官たちの大厄を払うため、伊勢神宮に願文を捧げる。
内容が薄くて申し訳ないが、当主としての活動はこれくらいである。
あとはちょっとしたエピソードをば。
政長は連歌になかりの関心があったらしい。
享禄元(1528)年、政長は自身の詠んだ連歌付句(前句につけて詠む句)の批評を、清原宣賢を介し、京の上級公家・三条西実隆に依頼した。
一般に連歌、和歌などでは批評する際に「よし」とするものには合点をつけるが、実隆はこの政長の付句を却下したらしく、合点をつけなかった。宣賢は、政長から預かった黄金一両を取り出して懇願した。
そのため実隆はいったん受け取ったが、「迷惑の事なり」と一言もらしている。
常陸の真壁家に、京での連歌の会について書き送っている。おそらく、京都文化にあこがれて連歌の道に踏み込んだか。事実、京人とも交流があったようだ。
当時の大名が京文化にあこがれたからといっておかしくはない。教養も身につけねばならないし、京人や周辺大名との交流もとても大事なものだ。
しかし、この間に、一族、家臣らの対立があったらしく、持政時代の繁栄ぶりとは一転し、小山家は衰退の一途をたどる。このように、芸に耽溺し、武家を傾けさせた当主は、どうしても後世の誹りをうけてしまう。
文化への関心の裏には、30代半ばで死去した事や、家中の反発など悲しいものが漂っているようで、政長が連歌会に出席している姿を想像すると、栄華よりも悲壮が感じられるのは私だけだろうか。
政長は父・成長が死去すると、ほどなく後を追うように死去した。1530年前後か。
政長が晩年文芸に傾倒したタイミングが悪かったのだろうか。家も傾いた。芸は身を助けなかった。
※ある系図によると、小山政長には二人の弟がおり、その系統は江戸期まで続いているらしい。まあ、このあとが結城政朝の高朝が継ぐので、政朝らが彼らの名を歴史から消し去った可能性はかなりあると思うが…。
―――――――――――――――――――――――――――――
小山小四郎 おやま こしろう 15??〜15??
小山政長の長男か。実家不明。小四郎。
大永8年の小山政長の願文によると、当時、彼は30歳で、7歳と6歳の娘がいたが、男子はいないという。
しかし、享禄2年〜天文3年(1529〜1534)の足利高基と晴氏の書状を見ると、小山小四郎という人物が小山家家督を継承していることが確認できる。系図では確認できない。
当時10歳前後になっていた政長の娘の婿養子として小山家に入った人物だろうか。実家は不明である。政長が山川家出身であることから、小四郎も山川系から入ったか?少なくとも、結城家出身ではないと思われる。
古河公方の内紛(こんどは高基と晴氏が争った)で小山家は高基につく。享禄と天文の間に、晴氏の軍勢が高基を攻撃したとき、高基は小山小四郎に書状で協力を要請している。それから半年後、高基と晴氏は和睦し、高基は隠居。晴氏が古河公方となる。
高基側だったのは小山家臣らの意向であって、小四郎自身はわけもわからず高基側についた可能性もある。しかし、結果的に敗者に加担した小四郎は廃嫡にされた。まだ十代半ばと思われる。
誰に廃嫡されたかというと、結城家(晴氏派)から入った結城六郎(のちの小山高朝)に小山家当主の座を奪われ、廃嫡にされたのだ。おそらく結城六郎(というよりも結城政朝の謀略か)らが晴氏と、また晴氏派の小山家臣を取り込み、高基と結ぶ小四郎一派と対立し、実権を奪取したのだろう。
以後の小四郎がどうしたかはわからないが、系図から抹消されているので、結城政朝か小山高朝に抹殺されたか出家させられたか。
以後、小山家は結城家のブレーンとして協力し合い、大いに機能していく。
――――――――――――――――――――――――――――――
小山高朝 おやま たかとも 1508〜1574
小山家当主。小山祇園城主。結城六郎。小山六郎。下野守。入道して明察。下総結城城主・結城政朝の次男。天正2年(1574年)12月晦日卒、享年67歳。法名・天翁孝運。
結城政朝の次男で、天文年間のはじめ頃に小山家を継ぐ。当時は小山政長の子とされる小四郎がいたが、古河公方の内紛(足利高基×晴氏)によってなんらかの形で家督争いがあったと思われる。
つまり、足利高基側に付いた小山家の状況が苦しくなり小山小四郎は退けられ、代わりに足利晴氏側の結城政朝の子・結城六郎が入嗣したのだろう。これが小山高朝と思われる。これにより、近年山川系だった小山家の血筋が、結城系の血筋に変わる。
高朝は、天文4年(1535年)12月4日付けで、伊勢神宮の御師・佐八美濃守に対して書状を送っている。
「当方、持政以来、本領以下皆もって相違候。ことに近年のことは成長、政長両代に洞取乱るる故、諸篇前々のごとくこれなく候」
・・・とあり、近年の混乱ぶり甚だしく、小山家は多難であると申し送っている。
小山持政は重興小山家の最盛期を築いた人物で、小山義政の乱で壊滅した失地を一部回復するほどの働きを見せた。しかし、その後の成長、政長両代で衰退したというのが通説である。
これは安易に成長、政長両人の能力が欠落していたという事で家を傾けたわけではない。室町後期の享徳の乱で小山持政は全力を賭けて戦を続けた。乱が終結した頃には戦費も討死した者も多く、小山家にほとんど力は無くなっていた。ただ広大な領地が恩賞として宛がわれたのだ。
さらに、先年の古河公方の争い(足利政氏×高基)で小山家は政氏派から高基派に移っている。家中では当然両派の家臣らがおり、それを当主が統制しきれずに家中がバラバラになってしまった事を示す。勝手気ままに振舞う家臣もいれば、忠誠を尽くしている家臣もいる。この状況が高朝が継いだ天文年間まで続いていたといえよう。そして、再度の古河公方の争い(足利高基×晴氏)の争いで、高朝が小山家を継承した。
いわば、小山成長は減衰した小山家を継いだのであり、小山政長は古河公方の争いで鞍替えした事により家は保てたが、家中をまとめることができずに混乱を招いた。
しかし、当時の小山家の勢力が減退していることは事実であった。高朝はまず一族や家臣団の統制に努めなければならなかった。山川系である成長、政長両代を批判して自らを正当化しようとしたのも、復興政策の一貫であろう。
高朝による家中統制の成果を「小山市史」に沿って紹介する。
まず、小山家重臣・水谷八郎は、高朝の命令に従わずに5、6年にもわたり大中寺領を横領していた。これを合戦でとり戻して寺に返還した。
さらに、岩上家、太田家をはじめとする協力的家臣たちに対しては、所領安堵や一字の付与などを通じていっそうの忠節を求め、内部の結束を強めたという。
また、合戦での勝利によって所領を回復した時は、その一部を家臣に宛がう約束をして果敢な働きに期待したり、あるいは伊勢神宮や安房神社に数々の物品を贈り立願し、その神慮によって合戦での勝利、失地回復を実現しようとした。さらに周辺諸領主への平和的、あるいは軍事的外交政策の展開によって回復を目指していった。
これらに述べたものは言われてみれば当然のことのように思えるが、実際に実行して成功している領主は少ない。高朝は、敵対していた結城家からの入嗣者にも関わらず、小山家中で成果を挙げていたのだから並み大抵の努力ではないだろう。
また、若い高朝には大きなバックアップがあった。反抗的な重臣を武力によって屈服させられるだけの力がすでにあったとは思いがたい。家督を継いだときから結城家から支援を受けていたことも察しがつく。これ以後、結城家とはしばらく密接な関係となる。
天文7年(1538年)正月以来、結城政勝と宇都宮俊綱の関係が悪化した折、高朝は結城に加勢している。宇都宮城下の侍屋敷や民家を多数破壊するなど戦果を挙げた。
天文8年(1539年)に起こった那須家内紛では、結城家、白河家らと共に那須高資側に付いている。そして、那須政資側に付いた宇都宮家を攻撃、宇都宮城下を「生城ばかり」にしてしまうほどの打撃を与えた。
「結城家之記」には、天文16年(1547年)7月、父・結城政朝が死に際し、結城政勝、小山高朝兄弟を呼んで遺言したとある。
自分が死ねば、その混乱を狙って宇都宮や小田が、結城や小山に攻めてくる。その時には兄弟力を合わせて敵の首を討ち取り、墓前に供えよ。これが何よりの供養であると言い残した。
結城政朝が亡くなってから50日と経たないうちに宇都宮軍が攻め寄せてきた。小山、結城両軍は福土味(現・小山市大字卒島福富周辺)で迎え撃ち、敵を多数討ち取って墓前に供えたという。
よくある脚色エピソードだが、案外嘘でもなさそうである。親が兄弟力を合わせる事はよく言う事であるし、事実、小山家と結城家はこれまでもよく協力して宇都宮家とも戦っている。小山義政の乱以後、小山家は所領の北部を宇都宮家に奪われている。結城家にしても、結城合戦以降に同じく宇都宮家に所領を奪われている。これを取り返すことは両家にとっても宿願であり、戦略的にも一致していたのである。
結城政勝、小山高朝兄弟の協力体制は1560年頃まで維持されるが、関東に北条家が侵攻してくると、兄弟は別々の道を歩み始める。
天文15年(1545年)河越城の合戦で古河公方、上杉連合軍が敗北。北条家の威勢が多いに上がり、その勢力は武蔵北部にまで伸びてきた。扇谷上杉朝定は討死、山内上杉憲政は逃亡、古河公方・足利晴氏は北条氏康の監視下に置かれてしまう。
天文21年(1552年)北条氏康は、古河公方の地位を足利義氏に譲らせ、足利晴氏、藤氏父子を排除してしまう。さらに氏康は関東管領を自称した。北条家の実力は明らかで、これに関東中の諸氏は震撼した。
結城政勝はこれにいちはやく対応し足利義氏支援をした。そして、天文24年(1555年)の伊勢神宮に参拝した帰りに小田原へ寄り北条氏康に謁見、支援を取り付けて翌年に小田氏治と戦って大勝した。北条家に組し、結城家を興隆させた。
しかし、小山高朝はこれに同調しなかった。それはなぜだろう。
高朝は古河公方・足利晴氏と懇意にしていた。北条氏康、足利義氏に公方の座を奪われた足利晴氏から高朝宛ての書状に、「今度の世上、その方父子の走廻りをもって。早速御本意に属さるるに至るは、本願望み中され候ごとくに、成敗相違あるべからず候」とある。その他にも進物のやりとりや病を気遣う書状もあり、公方側からも厚い信頼を寄せていたようだ。結城家よりも懇意にしていたといってよい。足利父子は、小山家を頼みに、北条家に反撃を試みていた。
これに対し、北条氏康は「当御所様(足利義氏)」に敵対する足利晴氏らに「御謀反人藤氏様御父子」とレッテルを張り、晴氏父子を伊豆に幽閉してしまう。
小山家の領地周辺は領土拡大の余地が少なかった。西部や下総には結城家とその目下の同盟者である山川家や多賀谷家、水谷家などがあり、こちらへの侵攻は皆無である。皆川家は昔の一族という事もあって侵攻は無い。佐野家、長尾家との本格的な争いは無い。ゆえに北の宇都宮領、壬生領への侵攻のみ考えられるのである。
南には古河公方の御料所が広がっている。小山義政の乱で失った領地はここに含まれているし、今は小山家の領地が入り組んで複雑になっていたので、これを攻め取れば相当な領土拡大に繋がる。これを攻めることはタブーであり、関東中を敵に回しかねない。古河公方の存在価値が無くなるような事態が起これば話は別だが。
北条家の関東侵攻は、古河公方の権威を揺るがす事態だったにも関わらず、高朝は公方を守ろうとした。兄の結城政勝がいちはやく北条氏康と結んでも、小山家は古河公方を守るという独自の路線を歩もうとしたのである。いや、この頃は切っても切れない関係になっていたと言ったほうがよい。それは、これ以降の小山家の変わりようを見れば分かるが、これについては小山秀綱の項で述べる。
結城政勝は弘治元年(1555年)に、足利義氏への取り成しを行っている。それでも高朝は動かなかった。息子の小山氏朝(のちの秀綱)が結城政朝と通じて足利義氏の赦免を受けていた。すでに時勢は北条方に傾いていたのだろう。1560年頃に高朝は隠居しており、氏朝に家督を譲っていた。足利晴氏、藤氏父子への忠節を捨てずに小山家を存続させるには自分が身を退くしかなかったのであろう。
しかし、長尾景虎が関東へ侵攻してくると、高朝の活動が見られる。しかし、永禄4年(1561年)の上杉政虎の関東管領就任式で千葉富胤と上座を争って政虎にたしなめられたという。これにより北条方に寝返ったという逸話が残っている。
事実かどうか分からないが、この後北条家になびき、翌年に上杉政虎に攻められて降伏した。
永禄5年(1562年)冬、上杉輝虎(上杉政虎が改名)が攻め寄せると参陣を促され、おそらく上杉に従軍している。しかし、翌6年には北条軍の勢いが増し、2月には武蔵のほとんどが落城。小山城は危機に陥る。このとき高朝は古河公方・足利義氏に赦免を請うたようで、その了承を得て上杉方を離れた。
これに上杉輝虎は激怒、永禄6年(1563年)4月に宇都宮家、佐竹家と共に小山城をたちまちに落城させてしまう。息子・小山秀綱の身をなげうっての懇願で上杉輝虎の許しを得るが、翌7年には再度北条方へ・・・。これ以降も上杉、北条の間を転々とする小山家であるが、1年のうちに鞍替えして戻ってくるときもあり複雑すぎる。あとは秀綱の項で述べる。
これらの動きを見ていると、秀綱が小山当主であるが、高朝は隠居していながらも小山家の方針を決定する立場も捨てていなかったことになる。高朝自身が参陣を促されたり、赦免を請うたり。よほど息子が心配だったと見ゆる。
また、高朝の3男は、高朝の兄・結城政勝の養子となり、結城晴朝と名乗っていた。小山家と結城家はまたもや兄弟の家となっていたのだ。結城家に養子に行った晴朝のこともとても心配していたと伝わっている。
元亀年間の頃、明察と号したようだ。
北条家の侵攻が迫り来る中、天正2年(1574年)卒す。
――――――――――――――――――――――――――――――
つづく
小山家へ
下野戦国争乱記へ
|