大宮城(塩谷町) (栃木県塩谷郡塩谷町大宮)
大宮城は栃木県塩谷町にあり、書籍「栃木県の中世城館跡」や「城郭大系」など多数の書籍に掲載されている。
南側にある寶福寺さんにお声がけして入城した。 学校や保育園が近いので見学には注意しましょう。
大宮城は鎌倉時代、君島一族の大宮家によって築城されたと伝わる。それから代々宇都宮家に仕えたが、戦国時代になり天正年間に大改築が行われた。これによって、現在みられる大規模な城郭になったと考えられるが、このあとも大宮家が城主だったのか、東側の館跡(小学校あたり)に移ったか、各地に転戦したか定かではない。 おそらく、大改修された城には塩谷町に点在する諸将たちが大勢で駐屯したに違いない。 その中に大宮某がいた可能性はある。
大勢の兵士が駐屯できる規模で、周辺の城と比べると群を抜いて大きい。ゆえに、宇都宮領の北方における拠点として整備されたと考えられる城である。
北方の藤原町方面では奥州勢も攻めてくる。 東の矢板方面では塩谷家が那須家と戦っている。 日光方面は日光山、壬生家がいる。 宇都宮北部も、日光山や壬生家への備えとなる。
上記のように、大宮城を兵站基地とすれば、四方八方への援軍や後詰となる事が可能である。
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大宮城 縄張図塩谷町大宮
城の構造について
大宮城は形がカッコいい! 構造を説明するのに「カッコいい」っておかしいが、この形、なんだか好きである。
大宮城は、主に3つの曲輪で構成されている。 中央が主郭で、その東西に1つずつ曲輪がある。そして、主郭から北西部に「西の山古墳」があるが、その間に堀切や小曲輪が連続して配置され、最高地に「乾の大堀」と呼ばれる大堀切がある。
遺構は良好に残る。曲輪は高い切岸で守られている。 横矢、馬出しなどの見所あり。
南側の宝福寺や民家あたりは、斜面が少々崩されている。 東側は寺の墓地があり、改変されている。 この辺りは地形を見れば、昔の姿は何となく分かる。多分、あまり崩されていない。
城の西側 グラウンドあたりについて
しかし、西側には高校のグラウンドがある。とっても改変されている。 ここは城を紹介している書籍、サイトで、色んな憶測が飛び交っている。 案内板では、長大な堀で囲まれた大曲輪があったり。 館?があったと推測されたり…。
多分、高校のグラウンドあたりに遺構はほとんど無かったと思います。
現在、北側の堀(乾の大堀)が途中まで崩されていますね。ここは残念。 しかし、その南は自然地形の大きな谷となり、大宮城と西の山部分(高校やグラウンド周辺)は、幅30mほどの谷が南北に伸びていたと思われる。 その推測の元となるのが、グラウンドの南の墓地で、大宮城との間が窪んでいる。これが大宮城と西の山との境と考えられる。 よって、高校のグラウンドは四角く造成されたため、真ん中の谷地に張り出している。
そして、この谷地の西はどうなっていたかというと…。 古墳があったり、山の斜面が南に下っていただけだと思います。その中に若干、作業のための道があったかと思います。現在は高校の校舎が建っています。
また、立派な大宮城があるのに、その西にさらに大曲輪は無いと思われる。 航空写真を見る限り、「長大な堀」というのはおそらく山仕事のための山道と思われる。 案内板の図面、凄すぎ。
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