大舘野城(仮)

(栃木県日光市所野)

 

 

 

 

この城は、書籍「栃木県の中世城館跡」や「城郭大系」などに掲載されていない。

だいぶ前に、日光大谷川の北側断崖に城は無いか探していたところ、国土地理院の傾斜量図で変な四角の区画を発見した。そこだけ森になっているが、周囲は公園や元事務所になっている。望み薄かと思っていたが、やっと行く機会があって訪問すると、うーむ、城跡だった。

 

現在は木が切り払われて、とても見やすいです。

 

 周囲を開発してここだけ残すというのもおかしいので、その城の存在は日光市職員の誰か知っているはずだ。城内は、若干だが公園化している。

 日光市小倉山森林公園の一角に遺構がある。公園開発されているが、これだけ残してくれたんですね。ありがたい。

 

東屋があったり、遊歩道が整備されている。でも、大体の形状は残している。開発記録などあったら見たい。

 

 

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もっとふさわしい城名がありましたら、是非ご教授ください。

字名や山の名前、地域名など。

 

 

候補としては、

大舘野城、欠無城、所野陣城、大飯山城。

 

この辺りでいかがでしょうか。

 

 

 

さて、この城は大谷川左岸の断崖上に位置する。三方を川に囲まれている。

とてつもない要害だ。

 

東や南からは崖が高くて入れない。現代は橋がかかっているので楽に入ることができます。

 

しかし、西から行くと、昔の街道があったようだ。西からのほうが入りやすい地域か。

 

 所野の歴史について自分なりに調べたが、どうしても城の伝承がみつからない。すると、陣城か?

 

 

 

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 やっと公開

大舘野城(日光市) 縄張図

日光市所野

 

 

  

城の構造について

 主郭と二ノ曲輪で構成される。小倉山から南に伸びる尾根先に位置し、南の主郭は断崖絶壁上にある。落ちたら間違いなく死ぬぜ。

 主郭は公園化されていて見やすい。約45m×約55mくらい。特筆すべきは横矢の土塁だが、西側の一部が休憩所で崩されているー!残念だけど仕方ない。曲がっている痕跡だけ分かります。

 

主郭 拡大図

 

 

 

 

北側に横矢の土塁、堀を作って、二ノ曲輪と区切っている。太い土橋で繋がっている。

 

 堀の幅が広〜い。しかも箱堀で、しっかりキチキチっと作られている。

 中世の城跡に見られる堀とは明らかに違う。

全然違う。公園化で整地されたような綺麗さだった。栃木県で箱堀は珍しいと聞く。

 

 

 このように私は違和感を覚えただけだったが、一緒に行ったクリヤさんによると、

1600年の関ヶ原合戦における徳川方の陣城か!?」

とおっしゃっていた。幅広い堀に、太い土橋。中世の山城では、こんなにきちんと作らないという。また、伝承が残らないのは陣城の可能性が高いとの事。

 たしかに、中世の堀はもっと鋭かったり、ささやかだったり。土橋も細いよね。

ふむふむ。

 

 

そうか。徳川方の築城技術が高い勢力が作った城か。

あまり知識が無いので納得してしまった。

でも、クリヤさんの見解は合ってると思います。

 

1600年頃は、付近の鉢石町まで結城秀康領なので、結城秀康配下が築城、もしくは既存の城を改修したのかな?

結城秀康家臣で、長田治部が日光領内所野村内で33石を与えられた史料がある(結城市史)。しかし、所野で中心部といえば、もっと東のほうで龍門寺があった辺り。なので、長田治部が、この断崖上の城を築いたとはいえない。所野村の一部から33石という石高を頂戴しただけだろう。

おそらく、結城家全体の意向として陣城を構えたと考えられる。

 

 

 

 

で、構造解説の続き。

曲輪の周囲に腰曲輪を配し、所々に竪堀のような溝があるが、これはどうでしょうか。本当の竪堀もあるし、山道の竪堀モドキもあるような…。航空写真を見ると、昔は城の中を東西に道が貫いている。現在の溝跡が山道なのでしょう。でも、あまり遺構は破壊されていない。

 

二ノ曲輪 拡大図

  

 

背後の山の方面を土塁と堀切で区切る。一番北側の堀です。ここは多少浅いけど、しっかり箱堀です。

 ここから二ノ曲輪に入るには、土塁の下をぐるりと迂回する虎口がある。

 もしくは、中央辺りの遊歩道が虎口だった可能性もある。この辺は少し崩されている。

 

 山頂に2つの曲輪を配置し、その周囲に一段だけ腰曲輪をめぐらしただけの構造と考えられる。その下の段々は造成によるもので、昔は自然地形だったと思われる。周囲から察するに、昔はとんでもない要害の地だったに違いない。

北の小倉山からは長い尾根続きで、欠無宿という修験宿があり、これを通り過ぎて入ることができる。

 

 

 

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周辺の地名、由来について

 

 寛政3年(1791年)『都賀郡所野村明細帳』には、「古城跡 無御座候」とある。城跡は無いと記載されている。すでに埋もれてしまったか、陣城のため歴史に残らなかったか。

 

城の東を流れる川は鳴沢という。かなりの落差があり、天然の要害となる。西に赤沢がある。この二つの川は大谷川に合流する。城の南は断崖絶壁で、大谷川がごうごうと流れる。

 

 

 

城の北側に「かけなし地蔵」がある。江戸時代の正徳年間(17111716)所野の龍門寺(現在は廃寺)の末として欠無庵が草庵され、地蔵信仰の場となった。現在は廃寺となり、地蔵堂、卵塔、石碑などが立ち並んでいる。そのあたりの小字名を「欠無」という。この欠無という名称は、修験の道の降りてきたゴール地点を指す「駆け出し」に由来するという。確かに修験の道のルートで宿坊が地蔵の隣にあった。それは中世から続く道なので、欠無の字名は、すでに中世にあった。

もしくは、周囲に崖が多いので、「崖を成す」という事で、ガケナス→カケナシとなった私見も挙げておく。

 

 

城の北東方面に「白ヶ石」という地域がある。城関連?と思ったが、読み方は「しらがいし」。城との関係はハテナ?である。また、森林公園に入る橋を白ヶ石橋という。1971年に作られ、その翌年に城跡の下に栃木県日光治山事務所が出来た。その時、城跡の東側斜面は削られたと思われる。が、若干だと思われるので城の原型は留めているだろう。現在、治山事務所は解体、植林されている。

 

 

城の西側は造成されて、かなり下った所にテニスコートがある。また、そのすぐ上に住宅分譲地がある。テニスコートは昔は谷地で、航空写真を見ると昔は畑だったようだ。その周辺は山林であった。人家は2軒くらいあったように見える。違うかも。

1974年に、城の北側にある小倉山周辺「小倉遺跡」の発掘調査が行われた。小倉遺跡(鳴沢川と丸見川の間)、実験場、小倉山荘(小倉山の南)あたりである。いずれも城からは遠い。遺物は主に古代のもの。住居跡は鎌倉時代以降、中世以降の鐙、鏃などは墓地になっていたため出土したという。この城とは関係無さそうだ。その後、山林の伐採、分譲などが行われた。小倉山森林公園が造成されたが、近年まで城跡の中心部は何故か山林のまま残った。遺構に気付いた方がいたのだろうか。

西側と東側が多少造成されている。主郭が公園化されているが、ほとんど遺構は残っている。西の横矢が崩されているのが惜しい。

 

 

 

 

 

城の名称について

 

候補としては、

1,大舘野城 2,欠無城 3,所野陣城 4,大飯山城 

 

候補の順番に。この辺りでいかがでしょうか。

 

 

 

候補1 大舘野城について。

一応、これが第一候補です。古文書「日増院古文書写し」に、有力な記述がある。欠無庵旧跡の説明部分に、小倉山、大舘野の間の原に欠無の旧跡あり…と。大舘野ですって??

現代では小倉山と城跡の真ん中に欠無庵があるので、大舘野というのは、この城跡を指すのではないだろうか。しかし、確証が無いので裏を取らなければならない。城の西側斜面、もと畑あたりを指すかもしれない。しかし、かなり近いのでこれでもOKだと思います。

所野の字名一覧を見たが、大舘野という字名はみつからなかった。

 

 

 

候補2 欠無城について。

 これは欠無の字名によるが、ここから南の城跡の場所まで欠無というのか分からない。しかも、欠無城って、なんか変だ。縁起の悪い意味ではなさそうだが、なんか変だ。

周辺は崖を成すので、欠無城でも良いのかな…。でも、語源は山伏修行のゴール地点「駆け出し」らしいんですよね。

 

 

 

候補3 所野陣城について。

 単純に所野といっても良いのだろうか。所野は広い。他に城跡がみつかったら名称に困る。なので、所野とはあまり言いたくない。しかし、すでに中世には所野と呼ばれている。結城秀康がこの辺りを支配していた記録が残る。

 

 

候補4 大飯山城について。

 古文書に、大飯山の北に丸美ヵ原があるという。丸美(丸飛)とは、鳴沢と丸見川に挟まれた現在分譲住宅地じゃ。大飯山とは、方向的に城跡の辺りだが確証が無い。望み薄か。

所野の字名一覧を見たが、このような字名はみつからなかった。

 

 

 

 

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まとめ

 

現在見られる遺構は、一番あとの時代のものなので、いつ築城されたのかは分からない。使用されたのは1600年の関ヶ原合戦時と推測する。

 

幅広い箱堀と、太い土橋が印象的な城だった。土塁もきっちりと作られている。また、周囲の三方向を大谷川、赤沢、鳴沢という川に囲まれ、断崖上に建つ要害だ。

 

中世までに日光山の勢力か、地元の領主の城があったかは不明。見晴らしが良いので、日光山の砦があってもおかしくない立地である。しかし、堀などの城の構造は中世の田舎勢力のものではない。間違いなく、進んだ技術が入っている。

 

 

 

 

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