龍ヶ谷城(竜貝城) 栃木県鹿沼市下永野
龍ヶ谷城は、栃木県鹿沼市下永野(旧・粟野町下永野)に位置する。
地元でも有名な城郭で、一説に長野要害ともいわれる。龍ヶ谷城、竜貝城ともいわれ、要害が転訛したものであろう。遠くから見るとトンガリ山で、竜貝山(ピーク350m)から北東に少し下った尾根の先端(ピーク292m)にある。いかにも城がありそうな山である。 粟野町誌、その他少々の書籍には掲載されているが、ネットにほとんど情報が無いので行くことにした。
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龍ヶ谷城(竜貝城)縄張図栃木県鹿沼市下永野(旧・粟野町下永野)
情報がほとんど無い。 冬なのにマダニがたくさん。2時間半で100匹以上は払った。いや、3月ではもう暖かいのだろうか。 遺構はモヤモヤだが、規模はなかなか大きく、集落の中心にある事から、下永野地域の拠点といってもよい。
この城について
曲輪内の遺構はモヤモヤ山〜図で、未成型な部分が多い。はっきりしない段差で描くのに苦労した。この山は、居住スペースの無い、長〜い細尾根が続いている所に城を造った。ゆえに、細尾根の両側に段を作って居住スペースを少しでも設けようとしたのだろう。 数段の段差が長々と続いている。このようななだらかな段々の形は図面描きには大変。しかも全長が長い長い。籠る気になれば、けっこうな人数が籠城できそう。
曲輪内はモヤんモヤんだが、堀切はシッカリしている。
・城の東部、馬出的要素のある前衛部分と二重堀切。ここには木橋がかかっていた可能性があるが、今は分からない。北側に竪堀が落ちる。
・堀切から虎口に繋がるラインが良い。
・主郭と二ノ曲輪の間の堀切から、両面の竪堀に繋がる。
・二ノ曲輪の背後の堀切は、両側に落ちて腰曲輪に接続する。
・二ノ曲輪の南側に竪堀が2筋あり、そこには小曲輪が段違いにいくつかある。敵
いずれも良好に残る。
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まとめ
寺坂峠からは遠いが、大越路峠は監視できる。北の粕尾からの峠道も監視はできる。しかし、この城は監視というより拠点のような気がする。
城の遺構は少々貧相だが、規模は大きく、永野の集落の中で中心に位置することから、この地域の拠点と思われる。 また、粟野町誌によると、麓には、馬場、下屋敷、中屋敷、待場などの屋号が残るという。
伝承によると、城主は何人もいる。 いずれも佐野家の影響がある。
まず、築城は文明年間(1469−1486)で長島某によるという。 永正(1504−1521)から大永年間(1521−1527)の頃は、毛野塚大膳太夫が拠った。 天文15年(1546年)から、天正18年(1590年)頃は、伊藤右馬之助、植竹備後、高瀬某、大久保某が居城したという。
そして、これらのもっと以前に、弘和2年/永徳2年(1382年)小山義政の乱で、小山方の「長野要害」の名が出てくる。これを公方軍が攻め落とし、公方軍は長野に陣を張って滞在した。 永野にある城という事で、地域の中心地にあって城の規模から考えて龍ヶ谷城のことか?といわれているが、遺構を見ても、この時に使用されていたかは分からない。大人数が籠るのは可能であろう。
築城の伝承は文明年間(1469−1486)なので、小山義政の乱の後ですね。詳細は分かりません。戦国時代には使用されていたと思います。
掲載されている書籍は、
・粟野の歴史(粟野町誌) ・栃木県の中世城館跡(栃木県教育委員会) ・鹿沼史林第51号、杉浦昭博氏の論考「小山義政粕尾挙兵と粕尾の城について」
です。あとは少々ありますけど、大体この3冊でしょうか。 調べたい方はどうぞお読みください。
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