生田目城(益子町) なばため−じょう また益子に来ちゃった。俺、益子好きだな〜。 西明寺城で飽きるほど来たというのに。 ほとんど情報の無い生田目城をやることにしました。前から気にはなっていました。ここは個人所有の山でお宅のすぐ上にあります。 なので、お城を見る場合は必ず所有者に許可を取ってください。 場所・益子町大字生田目字館山にありますですデス。山から西に突き出た台地上に遺構あり。分類としては平山城になるのでしょうか。 生田目城は、栃木県の2大タイトルである「栃木県の中世城館跡」や「大系」には掲載されていません。なので余計に知られていないのでしょう。 生田目城(益子町) 作図 上沢光綱
城の情報は「芳賀の文化財」という本に掲載されています。それによれば、上から、本丸、二の丸、三の丸に分かれています。保存状態は良好という。
・方角を合わせるため横倒ししました。こんな形してない。ヤブなので私が分からなかったのかもしれない。というか、本丸の広さ1500坪も無い。
下界から10mくらい登って三の丸へ。
三の丸の土塁A(左)と、四阿@(右)
この土塁Aは城の西端のもの。崩したかもしれませんが大きめに残っている。四阿@は、ここに以前あった天台宗の正覚寺(しょうがくじ)跡です。今は廃寺となって四阿の御堂が建っておりますぜ。 拡大図
三の丸 南の櫓台B 南側に大きく残っている。上には祠が祀ってある。 曲輪の呼称は「芳賀の文化財」にならって、本丸、二の丸、三の丸と呼びます。ほんとは本丸とか、二の丸って呼び方は好きじゃないのですが。 三の丸の上の切岸 高さは5〜6mくらいでしょうか。なかなか高い。 この上が二の丸だと思って登ると、そこは藪のヤブ!もっと早く来たほうが良かったか?しかし、冬でもあまり変わらなそう…。 かき分けて入ろうとすると、藪でよく見えません。危なそうなので、仕方なく作場道を通って上の本丸方面へ。 二の丸から本丸へ行こうとしたら、いつの間にか、本丸裏手の堀切に来ちゃった。 本丸の後ろの堀切E 左はただの山。右は本丸の横矢、土塁。 後ろの山と城を分断する堀です。堀は折れていて、横矢がかかっている。 良く残っています。 拡大図 Cは土塁の内側で、一段高くなっている。 Dあたりに薄っすらと溝がある。本丸と二の丸の境か? Fは、E堀からの延長上の部分。もしかしたら竪堀があったかも。 ところで、二の丸と本丸の境目は!?段差にも気づかなかった。戻って藪の中に入ると、ほんの少しだけ堀のような溝が。Dの部分です。途中で消えてしまうので、水色のラインに堀があったんじゃないかなと推測。 それ以外は平らです。本丸と二の丸と思われるスペースは、とても広くてずーと平ら。ヤブだったから見つからなかった可能性も。 本丸には明治初期に寺子屋がありましたそうな。これが益子小学校の前身だそうで。すると、寺小屋があった本丸って、改変されてんじゃないか? あと、昔、しいたけ栽培をしていたそうで、ならしているんでしょう。 「芳賀の文化財」の生田目城の図によると、本丸と二の丸は区切られている。しかし、実際に来てみると、本丸と二の丸の境目が全く分からない。 寺子屋を建てたとき、押しナベちゃった? また、城の北側には山へ登るための作場道が通っている。ここは改変でしょう。こちらに遺構はありませんでした。あと、北側にいくつか谷があります。なかなか守りは硬いか。 城を取り巻く細い腰曲輪は後世の作場道にも見えます。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー まとめ 生田目城には現存する堀切は一本だけ。横矢のかかる良好な遺構。よって、山から出た尾根を最終ラインだけ堀で切り、その手前に段々の曲輪を配置した城と推測する。 土塁が断片的に残っているので、往時は土塁で囲まれていただろう。しかし、正覚寺や寺子屋が建ったことで改変されている。 益子系図を見ると、益子勝広が生田目市四郎と名乗っている。戦国時代ちょっと前の人物。この生田目勝広が生田目家の祖で城主になったと思われる。また、この山の麓(西側)には、上城、中城、下城、北郭、南郭などの地名が残る。 北郭、南郭の部分は、平時の館が置かれていた可能性が高い。少ししか見ていませんが、今は住宅地となっており、改変激しくて全然わからなかった。今度はもっとよく見てこようかな。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
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