宇都宮家当主列伝
其ノ弐




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宇都宮尚綱 うつのみや ひさつな 15131549

 宇都宮家20代当主。宇都宮城主。従四位。侍従。下野守。弥三郎。俊綱。左衛門尉。右馬頭。宇都宮興綱の嫡男。正室は結城政朝娘。母は小田政治娘。天文18年己酉927日卒。享年37歳。法名・悦山喜公。万年院。


 伝承だが、はじめ宇都宮大明神の神宮寺慈心院院主であったといわれている。本当に院主であったかは不明で、若い頃出家し、慈心院で過ごしていた可能性はある。

 宇都宮興綱が天文元年1532)に、家臣の壬生綱房と芳賀高経、高孝らに迫られて隠居されられた後、慈心院に住んでいたとされる俊綱は、彼らに担がれ当主となる。
 天文5年(1536)父・興綱が重臣らに詰め寄られ自刃させられると、さらに宿老・壬生綱房の専横が目立ち、天文5年頃から3ほど鹿沼を攻めたが功なく、そのうちに宇都宮家臣が離散した。
 以前から関係が悪化していた芳賀高経などは小山家と関係を持ちはじめたので、天文10年(1541年)、古河公方・足利晴氏、小田政治、佐竹義篤らと組んで芳賀高経を追いつめ、父を殺された恨みと家臣団への見せしめのため芳賀高経を殺害。最後は小田政治のもとへ逃れたのち殺害とも、児山城に籠城して戦死、もしくは逃亡させたともいわれている。
 芳賀高経の謀反説は天文8年説もある。
 系統の途絶えてしまった芳賀家には、益子勝宗の3男・宗之を養子に入れて芳賀高定と名乗らせ、以後大いに機能する。
 
 また、この頃起こっていた那須政資、高資父子の内紛には、小田家、佐竹家と共に那須政資に協力して、那須高資の烏山城を攻めたりしていたが、あまり功はなかった。結城政勝、小山高朝が那須高資方として宇都宮に攻めてきている。「小山高朝書状」の記述によれば言いすぎだが、宇都宮城周辺を焼き払い、城を裸同然にしてしまったという。先代・興綱の時代は友好だった結城、小山家とは今後、戦を重ねてゆく。

 天文10年(1541)頃、結城政勝の姉?を室として迎えて周辺の敵を減らそうとするが、程なく結城、小山両家とは再び対立し、何度か合戦があった。宇都宮家はこれらの争いの中で、常に不利な戦いを強いられたといわれているが、史料が「那須記」や「結城家之記」や「水谷蟠竜記」などの他家で、しかも後世の史料なので、そのまま鵜呑みにすることはできないだろう。
 しかし、実際の状況を考えても、重臣の謀叛などもあり、周辺の領主とは幾度となく戦い、尚綱の時代は必ずしもよい状況とはいえなかった。周囲は敵ばかりで、とても難しい情勢だったろう。

 晩年に尚綱と改名している。

 天文18年(1549年)927日、古河公方の要請で那須家と喜連川に出陣。それまで数度小競り合いがあったが、天文18年の合戦では悲劇が起こる。
 出陣した宇都宮勢は2000騎とも2500騎ともいわれている。対する那須勢は300騎の小勢。勝敗は火を見るよりも明らかであった。はじめ数に勝る宇都宮軍が優勢に戦を進め、退く那須勢を追い立てた。しかし、早乙女坂に伏せてあった那須の兵に不意をつかれ混戦。伊王野配下・鮎ヶ瀬弥五郎に矢で射抜かれ、無念の討死。
 これにより宇都宮勢は総崩れとなり、本城宇都宮城は壬生綱房に占拠されてしまう。
 芳賀高経の子・芳賀高照は、父の仇を討とうと奥州の白河家に寄食し、再興を那須家に頼んだとする逸話もあるが、壬生綱房が宇都宮城を支配する正統な理由として芳賀高照を呼び寄せた事が、父・高経の敵を討ったと後世に伝わっているのだろう。
 このとき、尚綱の嫡子である伊勢寿丸(のちの宇都宮広綱)は幼く、芳賀高定によって真岡城に落ち延びる。宇都宮一門である芳賀高照が宇都宮城に入り宇都宮領を支配したとはいえ、宇都宮家は一時ここに、領地支配を退く事となった。



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宇都宮広綱うつのみやひろつな 1545?1580?

 宇都宮家21代目当主。宇都宮城主。従4位。侍従。下野守。弥三郎。伊勢寿丸。加賀寿丸とも。正室は左竹義昭娘。母は結城政朝娘。天正887日卒。没年は天正4とも。享年36歳。法名:以天長靖。後花光院。


 天文18年(1549年)、わずか歳のとき、父・宇都宮尚綱が那須高資と五月女坂で合戦中に討死してしまう。これに乗じて、宇都宮家臣であった壬生綱房と芳賀高照に宇都宮城を奪われ、宿老・芳賀高定に連れられて真岡御前城へ逃れる。
 天文21年(1551年)芳賀高定の謀略によって、仇である那須高資は千本資俊により暗殺される。さらに、古河公方・足利義氏、佐竹義昭、那須資胤、北条氏康、江戸忠通らから援助を請い、宇都宮城奪還を画策していた。といってもこの時、広綱は10歳にも達していないから、実質的には芳賀高定が中心となって宇都宮城奪還の企てを進めていた。
 その間、宇都宮城を中心として勢力拡大中の壬生家が、芳賀領に侵攻してくるなど危機にさらされている。飛山城も占拠され、真岡郡では、祖母井城、八ツ木城などが相次いで落とされ、真岡御前城にまで壬生の魔の手が迫っていた。宇都宮家中の塩谷家は那須、壬生両家と通じ、
 天文24年(1555年)3、宇都宮城を乗っ取っていた壬生綱房が死去し、同月に芳賀高照を真岡に誘い切腹させると、本格的に宇都宮城奪還に動く。壬生綱雄の侵攻を防ぎつつ、芳賀高定は着々と周辺の諸勢力からの協力を取り付けていた。
 弘治3年(1557)佐竹義昭らの援助により、壬生綱房死後、宇都宮城で単独政権になっていた壬生綱雄を鹿沼城に退かせ、宇都宮城を奪還する。その後、しばらくしてから佐竹義昭の娘を正室として迎えた。

 宇都宮城主に返り咲いてから間もなく、永禄元年(1558年)に越後の長尾景虎が宇都宮領に攻め入る。多功長朝、綱継父子をはじめ宇都宮勢は奮戦し、先鋒の佐野小太郎を討ち取る働きをみせる。「下野国誌」によれば、上杉謙信を撃退して上州まで追撃したと記載されているが、追撃の話は創作であろう。佐野小太郎を討ち取ったことで長尾景虎を撃退したと後世に伝わっているが、佐野家は長尾勢の先鋒として侵攻してきたわけであるから、宇都宮家が長尾勢を撃退した事は間違いではない。
 永禄2年(1559年)小田原の北条家討伐のため越山してきた長尾景虎に加勢した。北条方である結城晴朝の留守を狙い、佐竹らとともに結城城を攻めるが、落ちず退却してしまう。
 永禄4年(1561年)長尾景虎による小田原征伐では、佐竹ら関東諸侯とともに再び参陣し、新たに関東管領に就任して改名した上杉政虎に協力した。その後、反上杉で北条側に付いた佐野昌綱、小山秀綱、小田氏治諸氏の攻撃に参陣している。
 だが、永禄7年(1564年)以降、関東における上杉輝虎の威勢が弱まり、爆発的に勢力を増してきた北条家に度々人質を送り、形ばかりだが降伏している。

 永禄12年(1569)、上杉家が北条家と越相同盟を結ぶと、これに対抗して佐竹義重とともに甲斐の武田信玄と結んだりした。しかし、これはあまり効果はなかったようだ。佐竹家と武田家は共に源氏の流れで、家格の見栄の張り合いで不仲になったとの逸話も残る。
 宇都宮家をはじめ北関東諸侯は、この越相同盟により、上杉家の協力が無くなり、北条家の矛先をもろに受けることになった。北関東諸侯は北条家から自家を守るため、さらなる苦境に立たされることとなる。
 広綱は、元亀年間には病で倒れたようだ。この頃に起きたクーデター事件があった。元亀3年(1572)正月、宇都宮城に出仕していた皆川俊宗が宇都宮城内で岡本宗慶と外交をめぐって口論となり、皆川は岡本を殺害して宇都宮城を一時的であるが占拠した。事なきを得て、皆川城に退去した皆川俊宗を滅亡寸前まで追い込む勢いを見せる。当時の宇都宮広綱は病床にあり、重臣らがトップを争う状態であり、その名を挙げれば芳賀高継(真岡城主)、徳節斎周長(鹿沼城主)、皆川俊宗(皆川城主)らが外交、軍事ともに宮家中の実権を争っていた。そこで皆川俊宗が爆発して自滅した結果となったのだが、これを機に宇都宮家中の統制も危うくなっていた事がうかがえる。これを受けて、広綱の妻である南呂院も宇都宮家中の事を取り仕切るようになってきたのだろう。彼女は常陸の太守・佐竹義重の姉妹であり、ゆえに宇都宮広綱と佐竹義重は従兄弟である。強い同盟関係になったのもこのためである。
 しかしこれ以後、皆川家がさらに敵対行動を取り、北条家に従っている。これを佐竹義重とともに幾度も攻めている。また、広綱は病床にあったにも関わらず、天正6年(1578)に祗園城を追われた小山秀綱と、北条家との和睦の仲介したとされる。
 しかし、天正年間に入って北条家が関宿城や小山城を奪取。そして上杉謙信の死去により、関東は北条家の独断場となり、北関東情勢はさらに厳しくなった。
 この状況に対して広綱は、宇都宮、佐竹、那須、結城家らと反北条連合を形成して、ともに対抗した(が、那須家とは対立していた)。北条家と手切れをした結城晴朝に、次男の朝勝を養子として送ったのもこの時である。これによって周囲との連携をより深めたのである。越後の上杉謙信、相模の北条氏康らはこれらを「東方ノ衆」と呼び、一目置いていた。こうした広綱の外交戦略が無ければ、戦国時代後期の北条家による侵攻は防ぎきれなかったであろう。
 天正56の晩年の頃は、花押も書けないくらいに病状が深刻な状態だったようで、幾度か軍代として芳賀高継が出陣している。

 北条家の都賀郡からの侵攻を想定し、天正4年(1576年)頃から平城の宇都宮城より守りやすい、北関東一の要害堅固な多気山城の修復をしている。現在、宇都宮城周辺の地名が多気山付近に残っており、屋敷跡も発掘されることから、宇都宮の城下町も本格的に移動させようとしていたと思われる。北条家の侵攻に対抗する本格的な居城移転計画だったかもしれない。しかし、広綱は天正8年(1580年)ついに死去する。享年36歳。早過ぎる死であった。一説によると37歳没の説もある。
 下野国誌には32歳没とある。この説によれば、広綱は天正4年(1576年)に死去したが、東方ノ衆らの結束のために4年間その死を伏せたという。



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