宇都宮家当主列伝
其ノ一




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重大人物
宇都宮成綱 うつのみや しげつな 14681516

 宇都宮家第18代当主。宇都宮正綱の嫡男。宇都宮城主。弥三郎。右馬頭。下野守。正室は那須資親の娘。母は佐竹義親娘。入道して継岩。永正13年丙子118日卒。享年49歳。法名:沙弥長胤。慈光院殿。


 室町後期の没落していた宇都宮家を立て直し、宇都宮家が戦国時代を通じて生き抜くための礎を築いた人物で、宇都宮家中興の祖といわれる。
 父・宇都宮正綱の跡を継いでいるが、長男であったかは異説がある。その説での長男は、武茂家に養子に行った兼綱(同腹の兄弟)である。系図によれば、兼綱は病をえていたとあり、そのため成綱が継いだと思われる。
 宇都宮正綱が、古河公方・足利成氏に従って上野曲川に出陣していたが、そこで病没してしまう。嫡男の成綱は、若干10歳で宇都宮家を継ぐこととなった。

 家督継承の際、武茂六郎なる人物が叛乱を起こし、古河公方から周辺勢力に宇都宮成綱に協力するようにとの書状が残る。当時の宇都宮家は、宇都宮正綱が武茂家から宇都宮家を相続した時に、宇都宮に来た武茂重臣らが中枢を占めており、これらが成綱の家督相続になんらかの不満があったと思われる。そこで武茂一族に近いと思われる武茂六郎を担ぎあげて叛乱に及んだと推測する。
 しかし、この叛乱は退けられ、さらに不穏分子となった武茂勢力は成綱に反抗的な態度をとった。このため成綱は、叔父・芳賀高益と協力して、反対派の重臣を一掃し実権を握った。父の宇都宮正綱は一時、武茂家を継いでいたといっても、もとを正せば芳賀成高の子であり、成綱にとって芳賀家は血縁である。
 当時の武茂と芳賀は、宇都宮家中での権力争いで、たびたび衝突していたと思われる。
 さらに宇都宮家は、享徳の乱で長年、古河公方・足利成氏方に与していたが、1470年頃は同じ公方方である小山家からの圧迫もあり、関東管領上杉方(幕府方)に寝返った。これは芳賀高益の献策であるといわれるが定かではない。文明14年(1483)正月、享徳の乱は終結し、その後失った領地を着々と取り返していった。芳賀家はこの後も心強い味方となるはずであった。

 ところが、芳賀高益が長享2年(1488年)に没し、次代の芳賀景高、高勝父子の頃になると宇都宮家中で絶大な権力を奮うようになる。先代・芳賀高益は成綱の叔父であったから、それを継げば景高らが権力絶頂になるのは当然といえば当然である。しかし、主君を軽んじての横暴に長じてしまった。
 芳賀高勝が所領安堵文書を勝手に発給し、それを成綱が追認するという主従逆転の状況も発生していた。
 芳賀家は3万石(清党合わせて6万石)という大きな領地を持っていたから、この対処を間違え、芳賀家が叛乱を起こしたものなら宇都宮家中が分裂してしまう恐れがあり、とても危険な状態であった。
 この逆転した主従関係はしばらく続き、やがて「宇都宮錯乱」といわれる、血みどろの惨劇へと発展してゆく。

 永正3年(1506)から古河公方・足利政氏が、子の足利高氏(のちの高基)と対立し、関東諸侯はどちらかに加勢して再び複雑な外交状況になった(永正の乱)。足利政氏は関東管領・上杉家と結び、子の足利高基はこれに対立し、宇都宮成綱らを頼った。

 足利高基は宇都宮成綱の娘を娶っており、高基がこの抗争に勝利すれば、古河公方の力を背景に、宇都宮家の勢力はさらに拡大する。次期の古河公方に就任予定の高基の義父である成綱が、関東に号令するのも夢ではない。
 また、1500年頃、結城政朝にも娘を嫁がせている。成綱は婚姻関係を含め、盤石な態勢の基盤を作っていた。
 ここから成綱の外交戦略が冴えわたるのである。

 足利政氏方は小山家、佐竹家、岩城家、佐野家ら。高基方は宇都宮家、結城家、小田家らという勢力図になった。
 成綱は、宇都宮家中が一致していないことの危険さと、自身への権力の集中も兼ね、まず芳賀家の粛清討伐を決意する。
 永正9年(1512)成綱は、宇都宮城に芳賀高勝を襲って自害させ、その後、芳賀家の重臣の城館を一斉に攻撃した。芳賀家の中には宇都宮家に味方する者もいたが、おそらく半分ほどの領主が反抗したのではないか。
 反抗勢力は大いに抵抗し、この内乱はおよそ2年間に及び、古河公方をして宇都宮錯乱といわしめたほどの内乱に発展した。成綱は、芳賀家を中心とした反対派家臣を壊滅させることに成功した。
 芳賀家は、宇都宮家の中でも随一の勢力だったから、抵抗を押さえるには相当の苦労をしただろう。しかし、ここで勢力を減退させなかったのは、やはり成綱の凄さだろう。
 新興勢力の壬生綱重が活躍したのは、この辺りからといわれている。こののち芳賀家は、芳賀高孝が継いだ。

 永正9年(1512)、宇都宮家などの反対派勢力に圧迫されていた古河公方・足利政氏は古河城を退去し、子の高基が古河城に入城する。これにより、父子争いに勝利した足利高基が古河公方に就任した。成綱は家中の征討と足利高基の古河公方就任という二つの成功に喜んだことだろう。
 しかし家中の混乱は大きく、成綱は隠居するという形で事態を収束させた。宇都宮家督は、嫡男の忠綱が継いだが、引き続き成綱は後見し、家政を見守ることとなった。
 その頃、先年まで宇都宮家と同じく管領側だった佐竹家と岩城家が、敵対していたはずの下那須家と結んで宇都宮領に侵攻するという情報が入った。
 この時の那須家は、関東管領と鎌倉公方の抗争による家中対立で分裂し、百年程前から管領側に上那須家、古河公方側に下那須家に分かれたままになっていた。何度も攻められた上那須家は佐竹家の支配下に入り、下那須の資房も、ようやく佐竹家に降伏した。高基側の宇都宮家は敵方に包囲され、孤立してしまった。

 この不利な形勢の永正11年(1514年)823日、宇都宮錯乱終結の直後、佐竹、岩城軍は2万の大軍(本来は二千五百程度だろう)で攻め込んできた。これに対して、宇都宮領内で嫡子の忠綱が迎え撃ったが、散々に打ち破られてしまう。援軍として駆けつけた成綱が奮戦して何とか撃退できた。
 この時、高基が宇都宮忠綱と結城政朝に対して、壬生口に移るようにとの指示を出している。この時は、佐竹、岩城軍との緊張がかなり高まっていたと思われる。
 娘婿の結城政朝や水谷勢も援軍に駆けつけ、活躍したという。
 ちなみに、この後(91日付)足利高基は芳賀一族の活躍を戦功を賞している(戸祭文書)。ここに芳賀一族がいるという事は、先の宇都宮錯乱で芳賀家中すべてが敵に回ったわけではないことを示している。
 相当な不利の状況をなんとか切り抜けた成綱は、周囲の敵を減らす行動に出る。合戦ののち、すぐさま下那須家と密かに不戦条約を結び、再度侵攻の可能性のあった上那須家と佐竹、岩城軍を迎え撃つ準備を始めた。

 成綱の支援する足利高基方は次第に勢力を拡大し、足利政氏方を圧倒していった。このときの勢力図が戦国時代の、北関東における領主たちの勢力図に影響している。つまり、政氏側についていた勢力は少なからず減退し、高基側の勢力は比較的有利に戦国時代を迎えるのである。
 永正13年(1516年)、2年前の汚名を晴らそうと佐竹義舜が大軍で攻め込んできた。宇都宮勢は待ってましたとばかりに、小川縄つるし台(現・栃木県那珂川町)でこれを迎え討った。これは準備万端だった宇都宮側の大勝利となり、五千の首を取ったといわれる。宇都宮勢は佐竹勢をさらに追撃し再起不能までに追い込んだという。

 宇都宮家の勢力は、成綱のこれまでの外交戦略によって強力なものとなっていた。那須家は上那須当主・那須資永(白河義永の子)が不慮の死を遂げてしまい、下那須の那須資房が継いで那須家を統一するが、統一直後で家中統制がとれるはずもない。
 また、足利政氏側に付いていた小山家も結城家に圧迫され、どちらも減退していた。下野国内に限らず、北関東で宇都宮家は随一の勢力だったろう。成綱は、このまま勢力拡大できたはずである。
 その後間もなく宇都宮城内でこの世を去った。享年49歳の惜しまれる死であった。



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宇都宮忠綱 うつのみや ただつな 14961527

 宇都宮家第19代当主。宇都宮成綱の嫡男。宇都宮城主。弥三郎。左馬権頭。下野守。生母は那須資親の娘。姉は古河公方高基の妻。妹は結城政朝の妻。大永7年(1527年)716日卒。


 永正9年(1512)に起こった宇都宮錯乱が終結すると、宇都宮成綱は忠綱に家督を譲り、隠居する。忠綱は17歳の若年だから当然、成綱が後見役だが、他家に養子に入った叔父たち(武茂兼綱、塩谷孝綱)も、忠綱の後見役といったところか。
 はやくから父・成綱の名代として戦場に出て、古河公方の内紛時に、宇都宮家事実上の総大将として活躍している経緯もあり、ここから「宇都宮興廃記」にもあるように、尊大不遜とはいい過ぎだが、荒々しい武者性分に成長していった事はなんとなく推察できる。

 永正
11年(1514年)、佐竹義舜と岩城由隆が宇都宮に侵攻した折、一度劣勢となるが、父・宇都宮成綱と、結城政朝率いる山川朝貞、水谷勝之らの助勢を受けて、辛うじてこれを撃退した。
 以後、周囲との協調を図り、古来の一族である笠間家や、遠く奥州伊達家とも交渉を持った。
 が、婚姻を結んで義兄弟の関係である結城政朝に疑心を感じていた。武勇が近隣に聞こえていた政朝は、宇都宮家にとって、将来危険人物になるに違いなかった。結城政朝は後世に「結城家中興の祖」と呼ばれるかなりの人物で、偉大なる父・成綱亡き後の忠綱では、吊り合いが取れなかったのかもしれない。

 永正9年(1512)古河公方抗争の終結後、勢力を拡大できる状況にあった忠綱は、ここで一気に結城政朝を除こうと結城への侵攻計画を着々と進める。
 大永3年(1523年)、宇都宮勢1500騎と、支配下に治めていた鹿沼など都賀郡の兵一千騎余りを率いて皆川領に攻め入った。これは結城を攻めるための足場固めであると思われる。その前には結城家に従属している小山家があり、これらと戦うには、都賀郡辺りの小豪族たちを宇都宮領に取り込み、力を大きくする必要があった。
 河原田合戦と呼ばれたこの合戦は皆川方の大敗で、当主・皆川宗成や、宗成弟の成明が討死にするなど、壊滅的な大打撃を蒙った。
 だが、次々と支城を奪う忠綱のもとへ急報が入った。壬生綱房が宇都宮軍の後方を脅かし、退路を遮断しているという。皆川領併呑までもう一歩の所で仕方なしに兵を退いた。この時、皆川の援軍として、結城、小山の兵も来ている。この時には、宇都宮と結城方の手切れは決定的なものになった。結城家を潰す前哨戦ということを政朝に感付かれていたかもしれない。
 その後も結城政朝は、南北朝以後宇都宮領となっている元結城領を取り返そうと狙っており、さらに関係は悪化していく。さらに叔父の芳賀興綱が結城に赴き、宇都宮家から自立の動きを強める。

 大永6年(1526年)、突如、結城政朝が宇都宮領に侵攻する。忠綱は急遽迎撃に向かい、宇都宮に程近い新田猿山に対陣。宇都宮勢が劣勢となって混戦しているその隙に、興綱が宇都宮城を奪ってしまう。
 忠綱は進退窮まり、鹿沼城の壬生綱房を頼って落ち延びた。興綱から、隠棲地の鹿沼に捨扶持を貰っていたというが翌年、鹿沼で失意のうちに死去してしまう。壬生綱房による暗殺ともいう。
 また、忠綱の庶子に岡本元綱という人物が確認される。永正年間に現・西方町の真名子古城(赤壁城)を築いたとされ、のちに越後別府に移ったという。
 宇都宮忠綱の死によって、空白になった日光山惣政所の役職は壬生綱房が手に入れ、息子の昌膳を座禅院に据え、日光山を掌握するのである。



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宇都宮興綱 うつのみや おきつな 14751536

 宇都宮家第19代目当主。宇都宮城主。宇都宮正綱の次男。宇都宮成綱の弟。従四位。侍従。弥四郎。下野守。芳賀右衛門尉。母は上杉顕実娘。天文5年丙申816卒。享年62歳。法名:流月長順。


 宇都宮正綱の次男とされているが、本来は三男という。前半生は何をしていたか不明である。芳賀家に入嗣したといわれるが、すぐに芳賀家を継いだわけではない。
 永正9年(1512)、兄・宇都宮成綱が芳賀高勝を誅殺(宇都宮錯乱)してから不審が広がっていた芳賀家を継いだのは高孝であった。興綱は結城政朝のもとに身を寄せていたという伝承もある。
 永正18年(1521年)は芳賀高孝が芳賀当主であるから、その後ほんの数年だけだが、芳賀家の家督を継いでいるようである。宇都宮忠綱の時代に、興綱が芳賀家に入った何らかの経緯があったと思われるが不明である。
 そして、ほどなく転機が訪れる。宇都宮一門に生まれながら家臣の家に入嗣し、その後、他家に身を寄せるくすぶった生活を続ける興綱には、何ともしがたいものがあっただろう。


 大永6年(1526)下総の結城政朝が宇都宮領に攻め入ると、宇都宮忠綱は慌てて兵を集め、猿山で迎え討った。そこで合戦となり、混戦のうちに興綱は迂回して、宇都宮城を乗っ取ってしまった。この報に驚いた宇都宮軍は四散し、忠綱は鹿沼の壬生綱房のもとに身を寄せる。
 すでに50歳を過ぎていた興綱は宇都宮家の家督を相続し、宇都宮家当主・宇都宮興綱となった。これには結城政朝が噛んでいたようである。

 興綱が当主の間は、つい先年まで対立していた結城家、小山家とは昔からの友誼もあってか、比較的友好的だった。
 興綱ははじめ、対立関係にあった宇都宮家と芳賀家の関係を取り戻そうと、友好を築き味方にすることに努力した。芳賀高孝と高経を重臣として重用し、芳賀家は宇都宮錯乱で失った権力を瞬く間に取り返した。
 それに乗じて、
1530年頃から再び芳賀家の専横が目立ち始めた。鹿沼城の壬生綱房とも示し合わせ、彼等の家中での権力増大は、誰も敵わないほどになっていた。
 天文元年
1532)興綱は、芳賀高経、高孝、壬生綱房らに強制的に隠居させられる。理由は忠綱から家督を簒奪した主家への反逆行為だという。隠居させた壬生綱房や芳賀高経らは言えた立場ではない。なぜなら、大永6年(1526年)興綱の宇都宮家乗っ取りには、彼等も一枚噛んでいた可能性がある。壬生綱房は宇都宮忠綱を匿ったにも関わらず宇都宮家宿老の地位を許されているし、宇都宮錯乱以降、苦渋を舐めていた芳賀高経も、興綱が宇都宮当主になってから芳賀家を継いでいる。これらは、興綱が宇都宮当主になっても、前以って彼らの地位が保障されていたといえよう。
 興綱の宇都宮反逆という理由を持ち出して強制隠居させたということは、もはや綱房や高経らの権力と威圧は、当主の興綱をも上回っていたといえよう。それを実行してしまうのだから、下克上とは恐ろしい。
 それだけでなく、周りから不満があったのも事実だ。はじめは芳賀家との友好回復に取り組んでいたが、
1530年前後から北方の那須家を攻めた。常陸の小田政治と共に攻めたが、さっぱり功が無い。攻めては撃退され、損害がひどかった。それでも数年間にわたり戦を続けたため、宇都宮領の村落は荒れ果て、戦場になった村落、特に氏家辺りは荒廃甚だしく、いくつも村が壊滅している。
 民のことを考えずに戦を続けてしまうのは、やはり興綱の思慮足らない風体を示しているのだろうか。貪欲な野心や悪知恵はあっても、物事の限度が分からない興綱から周囲の人心は離れていった。

 この頃に、方針の違いからか、芳賀高経と対立している旨の書状などが残っている。お互いに対して、喧嘩して相性が合わないなどと書かれている。この対立は、一度は赤埴、戸祭らの取り成しで事なきを得ているが、二人の溝は深く、再度対立している。

 これにより、嫡男の俊綱が宇都宮家の当主になったわけだが、若い俊綱が重臣らの操り人形になる事は決まっていたようなものだ。俊綱は凡愚ではないが、興綱隠居後の戦略は芳賀高経らの専横政治で、ほぼ彼らの思い通りになっていたといえよう。友好的だった小山家などは敵に回り、宇都宮家は次第に周りに敵を作っていった。
 天文5年(1536)興綱は自害してしまう。これにも芳賀高経や壬生綱房が関わっていたようである。下野国誌の宇都宮系図によれば、享年61歳。
 謀叛にはじまった反逆生活は10年目にして、家臣らに強いられた隠居後に自刃するという、なんとも皮肉なうちに幕を閉じてしまった。
 これにより宇都宮家の家政は、完全に野心家の重臣によって牛耳られ、外交状況は四面楚歌になる。苦しい立場で戦を続けた俊綱は、悲劇の大将となり、その後、宇都宮家は最悪の事態を迎えるのである。



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