宇都宮家臣団

北部






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上平勝重 うわだいら かつしげ
 弥七郎。上平(現・塩谷町上平)の領主と思われる。
 下野国誌によれば、天151587年)日光山門徒と北条軍が日光に攻め寄せたときに、上郷衆として倉ヶ崎城(現・日光市)に籠城。しかし、大門弥次郎が心変わりして北条方に寝返り、他の5将と共に討ち死にを遂げた。

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上平修理亮 うわだいら しゅりのすけ
 文禄元年(1592年)の上平領主。氏家今宮神社の神事を行っている。
 上平勝重との続柄は不明。勝重が討ち死にしたあとに継いだとすれば、かなり近い続柄と思われる。


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上平四郎 うわだいら しろう
 「那須記」によれば、天正13年(1585年)の薄葉ヶ原合戦に出陣。塩谷伯耆守郎党等又其与力の侍の項に名がある。出自を「八幡太郎義家七男森冠者義隆三代上野四郎朝氏二男強四郎宗氏末葉也」とあるが、真偽のほどは定かではない。


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飯岡知貞 いいおか ともさだ
 八郎。のちに新左衛門。飯岡領主。

 飯岡領主の飯岡姓は、
 天文11年(1542年)に飯岡八郎。
 永禄8年(1565年)に飯岡修理亮。
 天正13年(1585年)に飯岡八郎(後に新左衛門)とある。

 飯岡姓は塩谷町飯岡に見える。天文11年と天13の飯岡八郎は、おそらく世代が違う人物であろう。飯岡新左衛門知貞は、天正13年に那須家と薄葉ヶ原にて戦っており、その時は塩谷義綱の旗下として参陣している。

 天正年間に築かれた、鹿沼・府所城主の飯岡惣左衛門尉と同族と思われる。天正年間になると、北条家の攻撃が鹿沼、日光方面から一層増す。これにより、塩谷、芳賀方面から武将たちが動員されている。その一環で飯岡家の一族から惣左衛門尉が出て府所城を任されたのだろう。
 飯岡八郎は、天正15年(1587)、北条軍の攻撃のため倉ヶ崎城(現・日光市)に籠城するが、大門弥次郎が北条方へ寝返ったため城は落城し、八郎は討死した。

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逆面周防守 さかつら すおうのかみ
 逆面城主。家臣帳によると、所領1000石とされる。

「那須記」巻十「鹿目落城言付君島備中守城入言」にも登場する。天正4年(1576年)宇都宮家が、鹿沼城の徳節斎周長を攻めるために軍議を開いた。すぐに鹿沼に攻め寄せようとする意見の強い中、逆面周防守は「早速攻めて兵を疲れさせてしまうより、先に使者を徳節斎(鹿沼城主)に送り進退を聞き、従わねば大勢にて攻め落とそう」と意見した。重臣の今泉もこれに同調したため、鹿沼城に石川新五郎が使者として選ばれたという。
 結局、宇都宮家は鹿沼城を攻めることになり、逆面周防守も従軍している。

 他の史料には、天正13年(1585年)宇都宮国綱が皆川広照を攻める軍議の時、諸将は皆川の大軍に不安を感じ、皆川城攻めに消極的であった。その中で逆面周防守は「敵大勢なるに驚き合戦を思いとどまるは武士の本意にあらず」と、今度は皆川を攻める事を主張した。
 また、天正16年(1588年)に再度、皆川と合戦が起こった際には「宇都宮方、芳賀伊賀守(高武)、逆面周防守両人は、大将皆川山城守(広照)を討ち取らんと切り抜けて追いまわる。(皆川)山城守は、かなわじとみて山伝いに落ち行ける」と伝わる。宇都宮家の中でも一の大軍を持つ芳賀高武と競うとは中々のもの。皆川広照を相当追いまわしたのであろう。
 これらの事項は史実であるとは受け取りがたいが、宇都宮軍に従軍していた事は事実である。

 逆面家の出自は不明。康暦2年(1380年)茂原の合戦に、宇都宮基綱に従って逆面周防守が出陣している。逆面城は室町時代に築かれたものと伝わっており、この時期に頭角を顕してきたのだろうか。
 逆面城跡は旧河内町の北西に位置し、山田川のすぐ西、U字型に広がる小高い丘にある。主郭付近は個人所有なので見学は不可。城跡の南側に居館跡と伝わる場所もある。
 また、逆面城跡の西には愛宕神社があり、その麓に「逆さ井戸」という井戸跡が伝説とともに次のように伝わる。

 下野国に配流にされた弓削道鏡が末寺巡りの際に訪れ、この井戸で水を飲んだ。井戸を除くと顔が逆さに映ったので逆面村と名付けたという。これは邪心ある者は井戸に逆さに映るという戒めと、城の井戸に伝説を掛けたもので、逆面の名付けについては全く意味を成さない。第一、逆さに顔が映ってしまった道鏡自身がその事を村名にするという事は、自分は邪心ある者だと広めてしまうのであり得ない。
 一説に、道鏡が逆さ吊りの刑にされた場所というが、伝承の域を出ない。
 江戸時代になると、天保13年(1842年)12将軍・徳川家慶の日光参詣の際に下問があった。それに対する答えは、「字愛宕下と申す所の畑に少々壱間四方程の塚御座候、年々幣帛相納め、これを逆井戸と唱え来たり候、昔は逆連村と申し候ところ逆面と相改り候儀は何にても印、留書等一切御座無く候えば相分かり申さず、只先々より言い伝わる計に候以上」とある。
 つまり、字愛宕下という所の畑に一間四方の廃れた塚があり、これを逆井戸という。逆連村から逆面に変わった記録は何も無いので分からない。という事である。江戸時代には井戸から塚に変わっていたようだ。

 これに関する地元の秘話が伝わる。ある時、逆面阿波守の逆面城に敵兵が攻め寄せたとの連絡があった。阿波守の娘・千鶴姫は機を織っていたが、城外に逃れて叶谷にて父の消息を聞いて回ったが誰も知らない。姫は逆面村に戻り、はずれにある逆さ井戸に身を投げた。村人は姫を哀れに思い、その井戸に塚を盛って弔ったという。現在、逆面町の南西にある叶谷町には、姫が訪ねてきた言い伝えが残る家がある。


 また、大正末頃に、塚には金の機や茶釜が埋まっているという噂がたち、村の男3人が掘ってみたが、少し掘ると水が溢れ出したので目的は果たせなかった。そして、3人ともその年のうちに死んでしまったという。
 今では井戸跡があり、そこに逆井戸の碑も立っている。

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逆面佐渡守 さかつら さどのかみ
 逆面の領主として名が見える。周防守との血縁は不明。

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逆面大学 さかつら だいがく
「宇都宮氏家臣書上帳」に名がある。逆面周防守らと同族であろう。

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逆面弥七郎 さかつら やしちろう
「宇都宮氏家臣書上帳」に名がある。逆面周防守らと同族であろう。

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高徳阿波守 たかとく あわじのかみ
 現・日光市高徳(旧藤原町)に拠ったと思われる。
 高徳には、高徳城がある。高徳仙左衛門という豪族の先祖が高徳城を築き、この地を高徳と改めたというが逆であろう。高徳という地に移り住んだので、豪族が高徳姓にしたと思われる。なお、阿波守や宇都宮家臣の高徳姓との関連性は不明。

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徳小衛門 たかとく こえもん
「宇都宮氏家臣書上帳」に名がある。高徳淡路守と同族と思われる。

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田所六郎左衛門 たどころ ろくろうざえもん
 新左衛門。田所領主。現・塩谷町の田所に拠ったと思われる。塩谷町史によると、所領1733斗という。

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長井大膳 ながい だいぜん
「宇都宮氏家臣書上帳」に名がある。長井与一郎と同族であろう。


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長井但馬 ながい たじま
「宇都宮弥三郎舊領高帳」に、長井与一郎と共に名がある。与一郎と同族であろう。

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長井与一郎 ながい よいちろう
 叶屋に所領を持つ。現・宇都宮市叶谷(旧河内町)と思われる。

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