壬生家通史
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京より下向してきたと言い張る壬生家は、業胤のとき宇都宮家に従い壬生城を築いてそこに拠るが、のち鹿沼に進出してきた。自出については別項で述べる。
いつの頃からか詳細はわからないが、綱重の代には鹿沼城に本拠を移し、壬生には嫡男の綱房を置いた。綱房の代にも嫡男綱雄を壬生に置き、同じ事をしている。これは壬生家が小山、皆川家と組んで宇都宮領を侵したものなのか、それとも壬生家が宇都宮家に鹿沼の支配を任されたのか、詳細は不明である。
記録がはっきりしてくるのは1500年代に入ってからである。1509年に綱重、綱房らは、関東に下向してきた連歌師の猪苗代兼載や柴屋宗長を鹿沼御所(現・鹿沼中央小学校)に迎え、連歌の会を行っている記録が、宗長の「東路のつと」に記されているので、その時には鹿沼にいたことになる。
綱重は宇都宮家と芳賀家の争い(宇都宮錯乱)の鎮圧に協力したといわれ、1512年の頃は宇都宮家に従っていたと思われる。三代目・綱房の時には反抗した事もあったが、綱重の代までは従属していたようだ。
1523年、宇都宮忠綱による河原田合戦では、結城勢とともに宇都宮勢の背後を突き、忠綱を敗走させている。宇都宮家を興綱が継いで間もなく、宇都宮家に出仕している。そこで綱房は宿老の地位を得たようだ。
しかし、次第に権力は増長し、事あるごとに謀叛、従属、謀叛の繰り返しになる。
また1534年頃には、綱房は息子の昌膳をして日光山の座主につかせ、自身は後見として神領惣政所職につき、日光山の支配権も握っている。また、領内の今宮神社の社殿を新造している。宇都宮忠綱が死去してからの空所を奪ったものと見られる。宇都宮家に対抗しようと勢力拡大を狙ったものか。
これより壬生家は、鹿沼、壬生、日光山の三次元政治の予備軍となり、戦国後期には統括が困難になる。
その一例に、壬生家の力が日光山に影響しすぎていることに不満をもった昌膳は1542年に謀叛を起こすが、兄の綱雄に攻め滅ぼされてしまう。
綱房の次代の綱雄は、宇都宮家の宿老として、とてつもない大きな権力を有するようになっていた(おそらく綱房は隠居し綱雄を後見していたものと思われる)。
宇都宮尚綱が、天文18年(1549年)に那須家との五月女合戦で討死後、後詰であった壬生家は宇都宮城を占拠し、芳賀高照を当主にいただき宇都宮家を事実上乗っ取った。尚綱の嫡男・伊勢寿丸(のちの宇都宮広綱)は、芳賀高定によって真岡に連れられ難を逃れていた。それ以降、綱雄らと緊張状態が続いていた。綱雄は旧宇都宮領に攻め込み、次々と所領拡大をしていった。この勢いのままいけば下野統一、そうでなくとも下野で一の勢力にはなり得たであろう。
弘治元年(1555年)壬生綱房が宇都宮城内で死去し、次いで芳賀高照が真岡におびき出され殺されると、弘治3年(1557年)に広綱らは綱雄を破って宇都宮城に帰還し、綱雄は鹿沼に退いた。ここで壬生家は綱房以来の大望を頓挫させる。
そして、常楽寺過去帳によると、永禄5年(1562年)綱雄は死去。綱雄のあと、壬生徳雪斎(綱房の弟もしくは子)が鹿沼城に入った。壬生徳雪斎は綱雄とは違って、宇都宮家に近づいた。
徳節斎は鹿沼地方と日光山を支配していた。小田原から来た商人へ、座禅院昌忠と共に、外郎丸薬の専売権も与えている。日光山も掌握していたようである。
5代目・義雄は、綱雄の死後、しばらくの間壬生城に隠棲していた。天正7年(1579年)に、日光山を掌握し、宇都宮家に与していた徳雪斎を討って鹿沼城に入った。そして、壬生城に重臣城代として置き、自らは鹿沼城に本拠を据え、小田原の北条家と結んで宇都宮家に対抗した。
以後、反北条家の宇都宮家や佐竹家らが鹿沼、壬生両城を攻め、天正13年には宇都宮家、佐竹連合軍が鹿沼城を攻めているが、義雄は北条家の来援でこれを退けている。また天正12、14年の北条家による宇都宮領侵入には、義雄も出陣して宇都宮家の多気山の両城を攻撃している。しかし、天正期、しばしば宇都宮、佐竹連合軍に鹿沼城を攻略されている。
なお、天正12年に北条家が、義雄の義弟である皆川広照を攻めた折は、北条家に一時叛いている。
天正15年、倉ヶ崎では激しい合戦があった。城が壬生方の日光山門徒の攻撃により落城しているが、城主は壬生弥次郎で壬生一門と思われる。しかし、この時は壬生家中では、宇都宮派と北条派とが対立して、分かれていたようである。
天正18年(1590年)の小田原征伐では、義雄は小田原に籠城し竹の鼻口を守った。しかし、7月に小田原城は開城し、その直後に陣没した。享年46歳という。義雄は男子に恵まれず、娘の伊勢亀がいるだけで、義雄の死によって所領を没収され、滅亡してしまう。
ちなみに鹿沼城は小田原征伐時、宇都宮勢の攻撃を辛うじて撃退しているのだが・・・。
伊勢亀姫は父・義雄の死後、壬生家臣・一色右兵衛大尉の妻となり、娘を産んだ。壬生滅亡後も帰農した旧臣や民衆に崇高を集め、江戸時代の寛文5年(1665年)85歳の長寿で、鹿沼で死去。
義雄の妻はすでに死去していたため、これが壬生の後家と呼ばれた人物であろう。
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