壬生家当主列伝



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壬生胤業 みぶ たねなり 14301494?


 下野壬生家の初代。壬生城主。筑前守。彦五郎。法名:常楽寺殿亀雲道鑑。明応2年(1494年)111日没。夫人は智光院殿大丘妙慶。永正2年(1505年)1111日没。

 壬生家の初代とされる人物で、出生を垂応天皇後胤、小槻宿禰今雄苗裔壬生官務庶流としている。小槻あき照の庶子という。小槻家(壬生官務家)の庶子が京から下向し、下野国壬生の地に土着したのがはじまりというが、その可能性は低い。伝によると1462年に武家を望んで京より下野国に下向、都賀郡の新間地堀之内に屋敷を構える。その後、宇都宮正綱に従い壬生城を築城したという。古河公方に頼り12千石、次いで上杉顕定に従い75千石を賜るとの伝承があるが、石高が多すぎる。虚実であろう。

 「下野国誌」所収の壬生系図には、「古名は上ノ原と呼び、胤業が住んでからは壬生と称した」とある。しかし、横田系図にはそれ以前から壬生の名が見えるので、地名から名を取って壬生姓を名乗ったというのが妥当である。また、京の小槻家ほどの家柄なら、御所や御殿として敬われるはずであるが、その形跡は無い。壬生城のはじめは小規模の城で、しかも宇都宮家臣に成り下がっている。決して高位の家柄の待遇ではない。現在に見られる壬生系図は戦国時代より後になってから作られており、捏造されている可能性も高い。それに、京都の小槻家には戦国時代の下野壬生家との関連文書が無いし、系図にも彦五郎胤業の名は見られない。胤業の出自については、「業」の字が横田家の通字であるため、長年同家からの出身が説として挙がっているが、「業」の字など、名前に誰でも使えると言ってしまえばそれまでである。同じく、「胤」の字も、君島家のそれという可能性も指摘されているが、これも推測の域を出ない。

 壬生姓の出自については、横田系図の鎌倉後期頃の部分に、「壬生三郎」(早世)が見える。単に壬生姓を名乗ったのではなく、壬生の地を領したゆえに姓を壬生と名乗ったのであろう。この頃すでに壬生家が存在したとすれば、これに宇都宮家中から養子に入ろうとしたアクションがあったといえよう。それまでの壬生家は、古代から続いた乳部の子孫と思われる。仮にこれが室町時代まで続いていたとしても、宇都宮家の強い影響下にあったに違いない。壬生家は鎌倉〜室町の間に、宇都宮家の傘下、家臣団に組み込まれたと推測する。

 壬生胤業の所業については、文書が一通も残されていないので不明である。しかし、建立した寺社などに伝承が残っている。それらを羅列すると、まず1469年に向陽山常楽寺を建立。壬生家の菩提寺とした。また、壬生の藤森神社(神主は壬生家臣の黒川家)に、近江国の雄琴神社から小槻今雄の霊を招致、合祀して雄琴神社と改名した。さらに、胤業夫人の要請で豊栖院を現在の地に移したという。主に、壬生町の寺社建立などに名を残している。
 発給文書が一通も無いので、実在の人物とするには材料が足りない。このような謎の人物であるがゆえ、私には架空の人物に思えてしまう。つまり、胤業の名自体が後世に作られたもので、「胤」は、はじまりを意味する。「業」は、なりわい、所業を意味する。すなわち、宇都宮家から独立色を強めた3代目壬生綱房によって、壬生官務家の庶流とされ、捏造された人物ではないかと思ってしまう。

 また、胤業の没年記録も諸説ある。
「下野国誌」では、文正2年(1467年)乙丑卒、享年70歳。
「常法寺過去帳」では、明応2年(1494年)111日卒、享年65歳。
「押原推移録」では、永正2年(1505年)卒、享年76歳。
「壬生家盛衰録」では、永正3年(1506年)卒、享年77歳とある。

 どれが正しいか確証は無い。



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壬生綱重 みぶ つなしげ 14481516


 壬生家2代目。壬生胤業の嫡男。壬生城主。鹿沼城主。意安。筑後守。左衛門佐。法名:大徹院殿胡蓋東闇。永正13年(1516年)917日卒。享年69歳。夫人は盛昌院殿般空妙栄。芳賀高益の娘。天文4年(1535年)1010日卒。

 綱重は天文元年(1532年)に坂田山に築城し、名を鹿沼城としたという。居館は現在の鹿沼市立中央小学校の地にあったという。近年の発掘調査により、小学校の校庭下に1500年前後の堀の遺構が発見されている。校庭から北側の住宅地辺りに居館があったようだ。しかし、これが壬生家の居館跡であるかは不明である。長年の間、校舎があった高台に遺構があると考えられていたが、ここは鹿沼城からの山続きになっていた部分であろう。館の裏山と考えたほうが良い。嫡男である綱房は壬生城に置いた。

 また、綱重は連歌にも熱心で、永正6年(1509年)白河の関を見聞しようと下野に立ち寄った連歌師宗長を鹿沼の館に招いて連歌会を開いた。宗長の記録によると、この二人は同年齢だという。白河政朝や親交のあった岩城家など、歌詠みの多かった奥州訪問を念願としていた宗長は、奥州に戦乱が起こっており、下るのは無理と知らされると落胆する。洪水のためとも言われる。宗長は鹿沼に一泊し、日光山に参詣に行った。この時綱重は随行していない。 帰路に際し、佐野まで宗長を見送った折、綱重と同年齢という親しみをこめて宗長は歌を詠んでいる。

 六〇あまりおなじふたつの行末は君が為にぞ身をもをしまむ

 なお、宗長の日記から壬生家はこの頃すでに、鹿沼地方に進出していたことが分かる。「皆川正中録」では壬生家が鹿沼を治めたのは大永3年(1523年)の河原田合戦以降とされ、どちらが正しいか確証は無い。だが、「皆川正中録」の記載はあまり信用できないので、本サイトでは、1523年時点で壬生家はすでに鹿沼に進出していたという説をとる。

 綱重は、戦国初期に起きた「宇都宮錯乱」(宇都宮家と芳賀家の抗争)を静めるため宇都宮成綱に協力したとされる。当時、宇都宮家中で絶大な権力を有していた芳賀高勝は自害させられ、芳賀家は衰退。戦力は、約半分になったであろう。乱は永正9年(1512年)に一応の収束を見る。当時の壬生綱重は、かなり有力な重臣に成長していたから、乱を鎮めたのち、宇都宮家中での名声はさらに上がったであろう。綱重はこのとき65歳。相当の年寄りで、嫡男・綱房のほうが壬生家中を仕切っていたかもしれない。
 壬生家が鹿沼を領してからは、約3万石。芳賀は6万石(直轄は3万石)である。壬生家はのちに日光山にも強い影響力を発しており、これも含めれば推定で45千石。芳賀家衰退後は、宇都宮成綱の器量から考えると、芳賀家を形式にのっとって最良に具したとは思えないし、壬生も権力を持ち、大いに飛躍したと考えてよい。これは次代・宇都宮忠綱の代でも続く。それが、芳賀興綱(宇都宮成綱の弟)や、芳賀高孝らによる大永6年(1526年)の謀反につながってゆく。

 「下野国誌」所収の壬生系図によると、大永3年(1532年)癸末に76歳で死去したとされる。


 ここからは壬生綱重についての私見なので、読み流していただきたい。
 前項で、壬生胤業は架空の可能性があると述べた。では、壬生綱重はどの家の子かと聞かれれば、西方家との推測を挙げる。西方(現・西方町)のすぐ東側、目と鼻の先と言ってよいほど近い壬生領。西方家は武茂家の庶流であったため、室町期の武茂の権勢が強かったときは、西方一族の壬生領における加増、入部も可能であったのではないか。
 そして私は、宇都宮成綱が当主を継いだ頃に着目した。室町後期の武茂家臣討伐である。15代・宇都宮明綱の死によって、武茂太郎が入嗣。16代・宇都宮正綱となったため、武茂当主は途絶えてしまった。しかし、武茂家臣は宇都宮正綱に多数付いてきたため、宇都宮家中の牽制は実質的に武茂家臣らによって固められていた。芳賀家と双璧を成す勢力だったと言ってよい。
 しかし、武茂家中の増長ぶりに絶えかねた17代の宇都宮成綱は、叔父である芳賀高益と協力し、これを征討してしまう。

 前述したように、西方家は武茂の庶流である。武茂も征伐されれば当然に西方家にも波及が来るが、戦国期を通して西方家は健在である。論点である壬生綱重の妻は、芳賀高益の娘である。芳賀高益は、武茂征伐の前に壬生綱重に嫁がせ、武茂家中の孤立を狙っていた可能性がある。ゆえに、その後宇都宮成綱ー芳賀家体制の時代に、壬生綱重は重臣として名を連ねる事ができたと考えた。
 その後壬生家は、1512年の宇都宮錯乱で戦功と地位を上げたと伝わる。すると、今度は芳賀家を打ち倒したのだろうか。綱重は、宇都宮成綱に味方した戦功で西方家から独立、宇都宮直臣となり、宿老の地位にまで登り詰めた。先年に、祖家である武茂家を討伐された仇討ちのために、壬生綱重は芳賀征伐に加わったのかもしれない。
 これらは推測であって、根拠など詰めなければならない事象は多々あるものの、こういった可能性もあると考えたため掲載した。今後の研究の対象にしたい。



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重大人物
壬生綱房 みぶ つなふさ 1479?86?1555


 壬生家3代目当主。壬生綱重の嫡男。鹿沼城主。壬生城主。下総守。中務少輔。日光山御神領惣政所。法名:龍柱院殿雲山良瑞。弘治元年(1555年)317日没。享年71歳。夫人は法雲院殿大蓮妙鏡。弘治3年(1557年)73日没。

 生年には1479年説と1486年説がある。母が芳賀高益の娘とすれば、1486年の生まれ年が妥当といえる。「下野国誌」所収の壬生系図では弘治元年(1555年)卒で享年77歳である。
 文献での初見は永正6年(1509年)に連歌師柴屋宗長が訪れた時である。この時、綱房は壬生城主で、父の綱重は鹿沼城主である。家臣の横手繁世と共に催し、見事な句を披露している。この後、横手一伯(すでに逝去)の娘を側室として迎えたという。

 「那須記」に、永正17年(1520年)浄宝寺縄吊し合戦での綱房の功績が記されている。大永6年(1526年)の宇都宮忠綱敗戦後に忠綱を匿った事で一時、次代の宇都宮興綱と不仲になったと思わるが、すぐに地位を回復している。忠綱の鹿沼隠居は、綱房と宇都宮興綱らとの間で始めから仕組まれた事に思えてならない。大永7年(1527年)に宇都宮忠綱は鹿沼で死去しており、綱房による暗殺説もある。そして、宇都宮興綱の代に宿老の地位を固めた。
 宇都宮家嫡流の忠綱がいなくなると日光山を掌握しようと、当時17歳の次男・昌膳を入れて、1530年頃に日光山御神領惣政所となる。これは日光山の統治者とされる役職であるが、実際には名ばかりのもので、綱房が日光山の内情にまで深く入る事はできなかった。しかし、日光山の出張所ともいえる鹿沼の今宮権現(現・今宮神社)の造営や、日光山岳の中継宿の改修など、尽力する面は数々の資料に見える。

 天文11年(1542年)壬生家の力が日光山に及びすぎることに不満を持った座禅院昌膳は、久野村(旧・粟野町)に隠居するが、ほどなく謀反の噂が立つ。綱房の捏造である可能性があるが、これを綱雄に攻めさせ、久野村にて昌膳は討ち死にした。自分の嫡男に、その弟を殺させるという、現代ではとてつもなく非情な事であろう。しかし、戦国時代とは時に非情を押し通さないと自分が殺されるという時代である。綱房の所業を探ると他にも非情な面が目立つが、ゆえに壬生家は綱房時代に勇躍したと考えられる。先年の天文2年(1532年)に宇都宮興綱を隠居させ、その嫡男・俊綱(のちの尚綱)を宇都宮当主に立てている。そして、天文5年(1536年)には、興綱を自害に追い込んだ。理由は主家簒奪の罪によってという。かなり強引なやり口である。この時は芳賀高経と協力体制を取っていたようであるが、こののち綱房は、芳賀高経と対立してゆく。おそらく権力闘争が原因であろう。
 天文8年(1539年)の芳賀高経謀反(1541年説もあり)は、壬生綱房の増長と、芳賀高経と宇都宮尚綱との不和によるものと思われる。この乱で芳賀高経が自決したことで、壬生綱房は宇都宮家中で非常に大きい影響力を有した。

 天文18年(1549年)に五月女坂で宇都宮尚綱の討死にしたのち、芳賀高照と壬生家が宇都宮城を支配。これにより綱房は宇都宮城に入城し、壬生城には嫡男の綱雄を置いた。政治の中心地である宇都宮城に、隠居したはずの綱房が入るという事から、綱房はやはり隠居してからも壬生家中において相当の影響力を有していたに違いない。
 天文20年(1551年)に那須高資が暗殺されるにおよび、芳賀高照と実力者壬生綱房の相性が合うはずも無く、高照が不安になっている時に、芳賀高定から芳賀高経法要の誘いがあったと思われる。この間、着々と旧宇都宮領を平らげ、壬生家の版図を下野国中央部に広げてゆく。塩谷家は不戦で、南は多功、今泉を牽制し、芳賀領の八ツ木、祖母井などを攻め落としている。
 天文24年(1555年)3月、芳賀高定は、先代高経の法要と偽り、芳賀高照を真岡城に招いて暗殺。同月に綱房は、宇都宮城内で死去している。芳賀方の者に暗殺されたかとの説があるが、想像の域を出ない。このとき綱房は70歳を越えているから、暗殺しても壬生家の権力がゆらぐとは到底思えない。自然死であると思われる。それまで宇都宮城主として亡くなった人物で、宇都宮家当主以外の人物は、壬生綱房のみである。

 物語風には野望高く、策謀家のイメージが先行するが、宇都宮家中での増長が綱雄の代に起こったとすると、意外なほどに書くことが少ない。日光山の掌握、それ以降の芳賀高経謀反や、宇都宮城乗っ取りは、綱房を凶悪な策謀家に仕立て上げる格好の材料のようだが、それを綱房が仕切ったという事実は確認されない。史料、文献などを冷静に読み取ると、わずかに綱房の動向が探れる程度である。しかし、晩年に宇都宮城に居座った事による影響力を考えると、そのわずかな中にも戦国武将としての生き様、強さ、冷徹さはうかがえる。
 綱房の死後、下野の情勢は急変する。これまで追い詰められていたかに見えた芳賀高定は、本格的に宇都宮城奪還に動くのである。



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壬生綱雄 みぶ つなたけ 15??1562

 壬生家4代目。壬生綱房の嫡男。壬生城主。鹿沼城主。綱長か?。下総守。永禄5年(1562年)514日没。法名:龍昌院殿恵光芳哲。夫人は陽光院殿春窓妙芳。永禄4年(1561年)314日没。

 壬生家の遠祖である小槻今雄(いまたけ)から「雄」の字を冠して綱雄と名乗った。代々、宇都宮家から名を賜っていたというが、これから宇都宮家からの独立色を強めてゆく兆しが見える。おそらく元服の時期は大永3年(1523年)の河原田合戦頃か。生没年が不明なため推測であるが、1505年頃の生まれであろうか。

 天文8年(1539年)頃の壬生家は、宇都宮家における地位は相当なものになっていた。3年ほど前から権力増長が甚だしく、小山高朝が白川義綱に心苦しいとの書状を送ったほどである。これは、綱雄の代である。また、その前年の天文7年(1538年)に行われた慈心院大造営では、能見学の宇都宮俊綱に供したのは塩谷伯州、上三河芸州、壬生中務、壬生彦次郎の名がある。4人の重臣のうちの2人を壬生家中の者が占めており、権力の高さをうかがわせる。壬生中務が壬生綱雄である。そして、もう一人の壬生彦次郎は不明であるが、「彦次郎」というのは当主以下、次男か、非常に近い一族であろう。この時、壬生からは能の道具も貸し出した。壬生家の勢力増大は、壬生領と小山領は隣り合わせだから、小山家にとっても脅威となっていたのかもしれない。

 なお、永禄2年(1559年)に今宮権現に奉納された鯉口に壬生上総守綱長とあるが、この人物は壬生系図には見当たらない。綱長はつなたけと読める事から、この読み方が合っているなら綱雄の誤字か、もしくは改名したのだろう。昔は音さえ合っていれば字は何でも良かった時代である。また、上総守という官途も怪しい。普通なら上総介である。徳雪斎周長の誤認とも受け取れるが、壬生綱長は綱雄の事と思われる。

 綱雄の代を調べるためにいくつかの史料を読んでいくと混乱する。なぜなら、綱房と綱雄の混同が激しく、綱房の時代に綱雄の記述があったりと、食い違いがあったり、細かいことまでは窺い知れないからである。それは「皆川正中録」などの軍記物などである。しかし、実際に文書や記録によると、若い頃から綱房に代わり、宇都宮家への出仕や軍事活動で多く綱雄の名が見られる。研究は後者によって行われるべきである。どちらにせよ、綱房存命中は威勢を振るう。
 天文18年(1549年)宇都宮尚綱が五月女坂で討ち死にすると、後詰となっていた壬生家は宇都宮城を占拠し、宇都宮領の大半を手に入れる。そして、芳賀高経の遺児で、白河に逃亡していた芳賀高照を宇都宮当主として迎え、権勢を振るう。このときは、綱雄は壬生城にいた。その間も、河内郡や芳賀郡に出兵し、着々と領内外の侵攻を進めていく。その勢力は、北は塩谷町より手前と、旧・今市市の一部。西は飛山、祖母井、八ツ木。南は上三川町の一部と多功の手前まで。西は今の鹿沼市中央部にまで及んだと思われる。当時では下野において最強勢力であったろう。以後は、上三川次郎、西方、塩谷、徳雪斎、那須資胤など約三千騎を率いて、芳賀家家臣の城を次々と落とし、大いに気を吐いた。

 しかし、弘治元年(1555年)の綱房死後、宇都宮城に入った綱雄の独裁体制となるものの、那須資胤はいつの間にか佐竹家と不可侵条約を結んでおり、弘治3年(1557年)に宇都宮広綱を奉じる芳賀高定らが攻めてきたときには、以前の兵数をかなり下回った。一千より少なかった可能性もある。河内郡、芳賀郡一帯の広大な戦場を駆け回り攻撃してくる宇都宮勢に対し、兵数で劣る壬生家は応戦できるはずも無く、各地で敗戦し窮地に追い詰められた。壬生に協力していた塩谷家も綱雄を攻撃してきたという。ついに宇都宮城を放棄せざるを得なくなり、元の宇都宮、芳賀領などを返還し宇都宮家に隷属することで命は助けられ、以前の領地である壬生、鹿沼に押し込められる。

 上杉謙信による小田原征伐後の永禄5年(1562年)に死去する(常楽寺過去帳による)。年欠で宇都宮広綱の書状があり、宇都宮家臣・赤垣の働きによって綱雄を生害した労をねぎらっているので、綱雄は暗殺されたものと見てよい。その前後に鹿沼城主となったのは、壬生家に関係があるとされる徳節斎周長である。彼の出自は不明で、宇都宮側に付いた人物である。
 また、天正4年(1576年)に綱雄は徳節斎周長に討たれたという伝承があるが、史実的には全く確認されない。この暗殺説については、まず否定して良い。別項で取り上げているので、詳しくはそちらをご覧いただきたい。永禄5年以降は綱雄の活躍が全く見られず、鹿沼での徳節斎の活躍が盛んになる事から、鹿沼城は天正7年(1579年)まで徳節斎周長が城主となっていたに違いない。



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壬生義雄 みぶ よしたけ 15441590

 壬生家最後の当主で5代目。壬生綱雄の嫡男。初名・氏勝。鹿沼城主。壬生城主。上総介。天正18年(1590年)718日没。享年47歳。法名:寒光院殿雄山文英。夫人は自性院殿源室宗本。天正17年(1589年)413日没。

 永禄5年(1562年)に死去した父・綱雄の跡を継いだが、鹿沼城には徳節斎周長が居座り、鹿沼や日光山に影響力を発した。当時の義雄の領地は、壬生城とその周辺の勢力に過ぎない。若武者は隠棲の時を過ごさねばならなかった。この時、父・綱雄時代から続く、古河公方との関係は保っていた。

 天正7年(1579年)2月、鹿沼城の徳節斎周長を討ち果たし、義雄曰く「近年の鬱憤を晴らした」という。徳節斎は宇都宮家と親密で、日光、鹿沼地方にかなりの勢力を持っていたから、これを討った義雄の武勇はあったのであろう。
 乱の際に義雄に味方した神山綱勝(徳節斎に継ぐ鹿沼の勢力であろう)を鹿沼城代として置くが、天正13年頃(1585年頃)には宇都宮方に寝返ろうとしたのでこれを攻めたか、もしくは追放した。神山綱勝はすぐに猪倉に移って宇都宮家臣となり、鹿沼右衛門尉と名乗る。義雄はこの後に鹿沼城を居城としたと思われる。
 天正年間、宇都宮、佐竹連合軍の侵攻に悩まされつつも北条の援軍を得てたびたび撃退、攻め込み、鹿沼、日光辺りでは激戦が繰り返された。しかし、日光山への書状にもあるように、状況はかなり苦しかったようだ。しかし、義雄は一貫して宇都宮家と敵対していたわけではなく、北条家と戦っていた時期もあった。この頃の壬生家は、近隣の宇都宮家、佐竹家などの緊張状態であり、または北条家の脅威に晒されながら生きるのがやっとの事であった。どちらと結んでも片方に攻められるのである。戦国の世は力が無いと辛い。
 天文18年(1590年)の小田原征伐時には北条として参戦し、小田原城に籠城した。そこで陣没してしまう。北条方の敗北に終わったため、壬生家の領地は没収され、壬生家は滅亡した。この時、鹿沼城は宇都宮家、結城家の猛攻にさらされて落城した。一説によると、豊臣秀吉は義雄に所領安堵したという。しかし、義雄には子がおらず、それで領地召し上げになったという。

 ここで、興味深い説がある。所領安堵された義雄をうらやんで、皆川広照が毒殺したというのだ。広照がいなければ、義雄の毒殺はなかったから、壬生家は存続していたかもしれない。だが、広照は北条から秀吉に寝返っていた。義雄は北条に付いたまま、小田原陣中で没した。処世術に長けていた広照に対し、義雄は見る目が今ひとつだったゆえに壬生家が滅んだのは田舎大名の限界だったのか。壬生家最後の当主ということで鹿沼城下の西鹿沼には義雄を祭った雄山寺が建立された。寺の奥には義雄の墓と、壬生家臣の墓が佇んでいる。

 義雄の後室「おこうの方」は壬生滅亡後も帰農した旧臣や民衆に崇高を集め、江戸時代の寛文5年(166585歳の長寿で、鹿沼で死去した。しかし、その後も「後室さま」と呼ばれる人物が存在した。おそらく、壬生義雄の娘・伊勢亀である。伊勢亀は義雄の死後、壬生家臣・一色右兵衛尉の妻となった。おこうの方の死後、伊勢亀が壬生の「後室さま」と呼ばれたのではないかという説が「壬生町史」にあり、私もそれが妥当と思う。
 壬生旧臣たちは、「後室さま」を中心として集会を開き、官途発給の要請など活動が見られる。しかし、その死後は京都の壬生官務家(下野壬生家の遠祖とされる)との親交を深め、壬生旧臣として活動を続けた。



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