益子古城 ましこ じょう

(栃木県益子町)

 

 

 

遺跡広場、益子陶芸美術館の丘にある城跡です。

 

この益子古城は、古城というが古くはない。

 

昭和あたりまでは益子中心部の城の中では古い城だといわれていた。ゆえに益子古城と呼ばれていた。

 

しかし、1989年に行われた発掘調査により、戦国時代の中でもわりと新しめの城という事が判明した。約50年使用された城だという。

戦国中期〜末期頃。

 

別名を御城山遺跡(みじょうやま いせき)という。戦国時代以前の様々な時代の遺構もあるので御城山遺跡といいます。戦国時代は御城(みじょう)と呼ばれていたのだろうか。益子家の中でも新しい勢力が築いた城だと思われる。

 

とにかく、益子古城は新しい城という事を広めましょう。

 

 

 

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益子古城(御城山遺跡)縄張図

(栃木県益子町)

 

戦国時代以前の様々な時代の遺構もあるので御城山遺跡(みじょうやまいせき)という。

 

 

 

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・構造について

 

益子町の中心部にあって小高い丘になっている。益子陶芸美術館や遺跡広場があり、かなり広い面積をほこる。要害というより政務を行っていた小高い丘城のように見える。

 

呼称は発掘調査書に準ずる。

 

 

・本郭

遺跡広場が本郭(主郭)とされる。掘立柱跡を元に石を置いたらしい。

中世の建物は10棟あり、それぞれが整然と建ち並んでいた。

7棟と8棟は何故か重複して建っていた。すぐ作り直したのだろうか。細長い7棟があって、その中に小さい8棟がある。茶室か?便所か?

東端に薄い溝がある。これは塀を建てたと思われる溝。

 

東に井戸があったが、馬の骨と、銅製の鉄砲玉が発掘された。時代不明。

 

参考程度に古代住居跡は4棟あった。中世の城を造ったときに縄文遺跡の土はけっこう削平したらしい。

 

あと、中世の建物跡と重なって細いL字の溝があった。削平されていて時代不明というが、これが中世以前の建物の痕跡となれば、戦国時代のみ使用されていた調査結果も覆る。いや、たぶん中世以前で古代の溝かな?と思う。

 

北側のデコボコは改変されてダメですね。帯曲輪か堀があったと思われる。

 

 

 

・南郭

陶芸美術館の曲輪は南郭と呼ばれている。建物は4棟あった。

ここも破壊。もう分からない。

 

 

 

・西郭

西郭には中世建物1棟あり。主郭と西曲輪の間に堀切があった。

堀切は上幅3m、底幅135センチのV字型です。深さは深い所で165センチ、浅い所で90センチです。大城郭の堀にしては小さい?まあまあか。

 

南の堀切(陶芸美術館側の堀)は幅12mという巨大さなのに、西堀切は規模が小さいです。小さいといっても幅3mはなかなかですが、幅12mに比べると…。

 

 

 

・東郭

東郭は、濱田庄司の家を移築した曲輪である。建物跡は1棟あったという。ここも破壊。東のなだらかな傾斜は、崩したという事です。畑にしていたんでしょう。よって、昔はもっと急な切岸だったと思われる。

 

 

 

・北郭

北郭は、小さいですが主郭の出丸のような位置にあり、改変でデコボコしているが半月型の構造と思われる。その東の堀の落差は10mくらいある。最大の防御場所かも。

 

 

 

・周囲の地形

東側の共販センターや駐車場あたりは、昔は湿地帯の沼地だったという。堀の名残である。

 

北は川と田園が広がる。こちらも湿地帯。天然の堀となっている。

北側斜面には、発掘調査のトレンチ跡がそのまま残ってる。

埋め戻してない!

 

発掘調査やると、もうめちゃくちゃ。

そこら辺が改変されて原型をとどめていない。

 

 

 

 

 

で、城の遺構に見える部分はどこまで復元したのか分からない。ダミー土塁、堀ばかり。なんとなくの城としか分からない。

今は公園になっていて、ほのぼの感がすごい。要害性なんて感じないが、往時は各曲輪が幅の広い堀切で区切られ、曲輪の切岸も急であったと思う。

 

そして、周囲の地形を見ると、東は窪地で昔は湿地帯。

北の道祖土との間も湿地帯。

西には中堀といわれる川があり、これも自然の堀。

南は丘があるが、その間は城内坂で区切られている。

という事は、地形を見ると要害ぶりが分かる。

 

 

いや、土をかぶせて保存し、その上に建造物を造ったから「遺跡保存」になったのだろうか。

そういう事にしておこう。

 

 

 

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・まとめ

 

御城山遺跡というので、戦国時代は御城(みじょう)と呼ばれていたのだろうか。それに対して、付近の益子城(古館)は字名のごとく古い居城になったと考えられる。が、この辺は妄想しているだけでは分からない。とにかく、益子城(古館)は江戸時代前期にはすでに「古館城」と呼ばれていた。

 

 益子古城と益子城(古館)は、なじみの無い人は混乱する。しかも、昔から通説だった年代は発掘調査により逆転してしまった。余計に混乱するので、ここで整理。

 

正しくは、

 

益子古城(御城山遺跡)遺跡広場や陶芸美術館のある丘。

→ 御城(みじょう)。益子新城。戦国時代に新築した益子家の新城。

 

 

 

益子城(益子古館)益子小学校と民家(立入禁止)

→ 根古屋城、古館城。昔からある益子家の城。益子新城が出来てから古館と呼ばれた可能性がある。

 

 だと思う。

 

 御城は新築の城だから、益子御城、または益子新城と言ってもいいかも。そして、昔からある益子城は古いので、その時に古館と呼ばれるようになったのだろう。

 市貝町市塙にある益子家の中心的な城は「御城」と称されている。益子家は中心的な城を御城と呼ぶのかもしれない。

 

 

とにかく、益子古城で発掘されたのは、戦国時代の約50年の遺構、遺物がほとんどであった。あとは古代のもの。50年間というのは、だいたい木造の建物がもつ年数で、それで建物を建て替える。長い年数使用している居城は、色々な建物を少しずらして建てるので、いくつも建物柱の穴があるものだが、益子古城には建物柱の穴が一世代分しかみあたらなかった。

また、発掘された遺物も戦国時代末期のものしかみつからなかった。これらの調査により、戦国時代前期から後期にかけて一世代だけ使用された事が分かったという。

 

 

で、往古から益子城(古館)があるのに、こんな至近距離に益子古城(御城山遺跡)を戦国時代に新築した人物、拠った勢力とは…。

やっぱりあの人物だな。

 

 

 

 

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