久我家




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・久我家の出自。

 久我家の系図などは存在せず、久我家による支配体制もあったかどうかも検討の余地がある。久我地域の勢力が勢を張っていた事は、史料などからわずかにうかがい知れる。久我某がこの辺りを治めていた可能性は高い。
 戦国時代にあったとされる久我家は、佐野家の出というのが通説で、宝治元年1247年)の宝治合戦で討死した佐野成綱の子に、七郎兵衛尉盛綱がいる。これが「久賀」を名乗っており、代々都賀郡の久我に拠ったと推測される。

 佐野実綱と成綱は、宝治合戦で三浦方に与し、最期の場所・鎌倉法華堂で65に討死している。その後、佐野家は苦しい立場に立たされた結果、子の盛綱は久我という離れ里に身を隠したのだろう。南摩郷綱も同様に戦禍を逃れて、佐野から離れたとの推測が立つ。それが結果的に、佐野一族が都賀郡に広く分布する事になった。
 はじめに登場した「久我盛綱」の4世代ほどあとの南摩親綱の子に、久我姓を名乗る人物「久我光綱」がいる。兄に南摩兼綱、弟に加園親秀、日名田親時らがいることから、鹿沼周辺に散らばったように受け取れる。
 そして、戦国時代の佐野秀綱の子に、「久我利綱」がいる。しかし、これらの人物が鹿沼地方の久我を領したかは分からない。

 「皆川正中録」によると、久我大納言清道の末孫が勅勘を蒙り、京より下野国足利に下り、その孫にあたる久我式部大輔常真という者が、のち天文年間に久我に移り居城としたというが、こんな山間のところに数十年も勢力を張れるわけが無い。佐野一族が久我に身を隠したという史実を消そうとしたものと思われる。

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・久我家当主列伝

・久賀光綱

 久我城主。佐野秀綱の子。利綱?小太郎。民部大輔。元亀3年壬申53日死去。

 久我における久我勢力は、天文年間から記述が見られる。戦国期、佐野秀綱の子・利綱が、天文年間の久我常真(久我光綱)に相当する。以下、光綱とする。
 「下野国誌」によると、元亀3年(1572年)53、壬生義雄と合戦に及び、討死したという。

 同年の6月に、対立していた日光山(徳節斎方)と壬生義雄の和睦が成り、10月から南摩・深沢合戦である。そんな緊張状態の最中に、久我で合戦があった。壬生方であった久我家が、日光山(徳節斎方)に内通したのを討伐されたのだろうか。推測の域を出ない。
 「加蘇村郷土誌」によれば、下久我村は元亀年中久我式部太夫常真の所領たり・・・」とある。常真とは、おそらく後世の死者に対する呼び名で、光綱の事だろう。
 家臣たちは、合戦で討死した光綱の遺骸を引き取って葬り、これを弔うため常真寺を建てている事からも、常真=光綱が成り立つ。


・常真寺所蔵の位牌516は、葬った日であろう。多くの資料では討死した日としているが、ここでは53日に戦死という「下野国誌」説をとる。光綱は、藤原姓を名乗っている。造主の、大橋仁左衛門と田那部半兵衛は、久我家臣と思われる。


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・常真討死後の久我

 元亀3年(1572年)の常真の死後、なおも家臣たちは久我城を守ったが、天正15年(1587)、皆川広照が攻め寄せ、ついに落城したという。
 宇都宮家、壬生家、皆川家がしのぎを削っていた地で、久我城周辺の在地小領主たちは、おのれの領地を各個守れるとは考え難い。どこぞの勢力に組して(おそらく壬生義雄)、生き延びていたに違いない。領主の死後、15年も空地にしておくのもおかしいからである。
 そして、天正15年(1587)になんらかの対立があり、討死覚悟の合戦を行ったと思われる。
 おそらく久我勢力が潰散(どこぞに従属)したのは、天正15年(1587)、久我一七騎が討死した時であろう。

・天正151587久我城落城の際、討死したと伝わる久我一七騎。

小曾根筑後、小林淡路、吉村丹波、福田丹後、湯沢内記、野尻伊豆、桂塚刑部、大橋筑後、新井右近、田子由好、木戸四郎、和田兵庫、栗沢六郎、破治賀大学、北佐源太左衛門、寺内庄太夫、坂本左近。

・以上17名。

 その他、地誌などでも久我(久賀)家の居城としているものの、その歴史は明確ではない。


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・「皆川正中録」の久我家由来

 「皆川正中録」には、常真の出自の項がある。その部分を分かりやすく約して掲載する。

 佐野家の親族に、久我式部太夫常真という者がいた。その故を尋ねると、京都に住む久我(読みは、コガ)大納言清道卿の末裔の者が勅勘を蒙り東国に下り、妻娘と共に、下野足利の里にしばらく住んでいたが、その後、小山家を頼って小山に住んだ。一人娘は小山下野守に嫁ぎ、女子を産んだので、この娘を佐野家の妻にすると、二人の男子を産んだ。
 
久我の姓を名乗り、長男を「久我式部」、次男を「久我源之丞」と名付けた。その後、天文の頃、小山家の領地である「加蘇野上郷」と「入粟野」とを小山家より式部に分け、「上粕尾」を佐野家より分地して加蘇野の郷に城を築いてここに住し、「久我式部太夫常真」(長男)と名乗って、この地を「久我村」と名付けた。次男の源之丞は佐野家に仕えた。
 郷村の名を加蘇野と言ったのは、加蘇山神社のある郷のためで、この途中に大鳥居があり、左右の境に山神の社がある。鳥居の傍らに祭場という場所があり、毎年の祭礼がある。この鳥居より奥に加蘇山神社の神領があるが、久我家が在城の後に掠めて領地としてしまったため、毎年の祭礼も止み、社家も退転したが、元亀2年(1571)の頃、社家がまた建ったが、神領も無く祭礼も止み、大鳥居もいつからか朽ち果てて建てる者もなく、ただ鳥居所の名だけが残った。

 以上が由来の部分である。久我某の娘と小山下野守の間に生まれた娘が、佐野家に嫁いだとすると、佐野秀綱と思われる。その娘の長男「久我式部太夫常真」は、佐野秀綱にしてみれば、3男の久我利綱に相当する。こう考えれば伝承と合致するが、皆川正中録の記述なので、推測で深入りするのは避ける。

 以下は合戦なので、「下野合戦概論」で掲載したいので、ここでは軽く流す。
 元亀3年(1572年)、常真は佐野家に加勢して、小田原の北条家と戦って戦死したという。そして、家臣らが城を守っていたが、天正16年(1588年)に粟野の戦いで滅亡し、領地は壬生義雄に召し上げられたとある。
 これが史実だとしても、久我勢力滅亡後の事であるので、この項ではこの年代以上は掲載しない。


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・久我の城郭

・久我城
 多くの資料で久我家の居城としているが、詳細は不明。南側には常真の討死後に建てた、常真寺がある。その後も家臣らが守っていたようだ。
 この城の構造は変わっていて、主郭に進むにつれて低くなっていく。その比高差は1520mにもなる。主郭の周囲の堀は深くて幅も広い。高低差を、広い堀と高い土塁によって補っているので、郭ごとの遮断性の強い城になっている。各所に馬出や虎口のようなものが見られるが、構成の改変もあり、判別が難しい。城北側の郭や堀は消滅気味、東側は削り取られており、とても残念である。


・金ヶ沢城
 久我城の北の城山(ジョウヤマ)に位置する。標高513.2mのため、久我城から見ると、とても遠方のように見える。実際に登っても急な獣道なので、相当疲れる。「栃木県の地名」では、久賀一門の引田宗長の居城としているが、何を根拠にしたものか不明である。
 「久賀日記」に、「久我殿古城ハ金ヶ沢御本丸北山也」とある。久我城の北側という事であろう。城域は広いが平坦地は少なく、主郭とその南側の郭くらいである。主郭の周りには空堀をめぐらし、いくつかの尾根は掘切で対応している。全体的に急勾配の城である。
 久我城付近から北側へ登る登城道が想定されるため、やはり久我勢力の城であろう。役割としては、詰めの城でなく、見張りや監視の城と思われる。金ヶ沢城へは南側から入ったと思われる。
 その理由は、城のある山は、すぐ隣にもっと高い山がある。詰めの城ならば、高いほうを城郭とすべき所を、金ヶ沢城は引田方面に近い山を選んでいる。しかも、龍階城のある引田方面や、西側の高畑地域も一望でき、敵を探るのに格好の見張り場である。しかも、そちら方面は急な崖なので、直登はほぼ無理。
 しかし、この城にまつわる史実は、一切不明である。


・老沢城
 久我城から南の川の対岸に「老沢」の地名が残る。「久賀日記」に、「及沢トキガ岩出丸古城」と記されている。
 「鹿沼の城と城館」で、「山の神が祭ってある、岩肌の見える露呈した山が、頂上が平坦で眺望も良い事から城と考えたのだろうか―中略―特に城らしい遺構は発見できなかった。」としている。
 ここが確かな城館であるかは疑問があるが、この老沢は久我の地において東西の街道、北は東大芦の引田に出る道があり、交通の要所である。この見晴らしの良い地に何も建設しないのは考えにくい事から、砦や物見のあった可能性を指摘しておく。


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久我家系譜

   

系図を糾合すると、以上のようになる。久我の姓が3人おり、それぞれが鹿沼の久我を領したかは疑問が残る。久我家が続いたとすれば、年代的に3人の間には数代いた事になるが、勃興→断絶→勃興→断絶の繰り返しだった可能性もある。
 また、右側に皆川正中録の内容を系図にしたものを掲載した。上記の系図と符合させると興味深い。

 また「粟野古記録」には、皆川庄岩出城主・久我七郎兵衛利綱八代之孫岩出播磨守のもとに、天文8年(1539年)右京入道が養子に入り、後に岩出道宗入道と改名した」とある。岩出城とは、皆川城のすぐ南にある城。真偽のほどは定かではない。
 戦国初期の岩出家は佐野泰綱に仕え、後期には皆川家に仕えていたようだ。



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