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小泉城(小泉館) (栃木県益子町)
小泉城(小泉館)は益子町大字小泉字五領にあった。 城のあった場所は「堀之内」という。「御蔵台」ともよばれる。 便宜上、ここでは小泉城と称します。益子町の南部にあり、南に下るとすぐに茨城県に入る。
当城は古文書の記述と村に残る伝承によって、古くから小泉小三郎の城館跡とされてきた。小泉家は、田野城主・羽石内蔵介の配下だと伝わる。
土塁のようなものが北側に残るも、その真贋は不明であった。一面が畑だったので城の全容が想像できなかった。それが、2021年の発掘調査によって明らかになった。 調査報告書と古文書をもとに考察しようと思う。
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(益子町大字小泉字五領)2020年
↑2020年、上記の縄張図に描いた遺構は消滅している。
2021年に発掘調査が行われた。その時はまだ土塁はありました。 その後の耕地整理で壊された。2026年、ふらっと見に行ったら、唯一の遺構だった高土塁は完全に崩されていた。 全く無い!(2026年現在)
これは所有者の方の考えがあるので、よそ者の私が文句を言ってはいけない。
発掘調査、耕地整理によって周囲の地形もなだらかになり、中心にX道路もできて城館の形状は無くなった。メチャクチャに壊した。 もうダメだ。
このページは現状を報告しているだけで、別に悪口を言っているわけではないのでご了承ください。 発掘調査前の土塁や切岸などを縄張図に書いていたので、これを後世に伝える記録としてここに掲載しておく。
また、発掘調査によって明らかになった堀や城の形状も、可能なだけ図面に付記しようと思う。 小泉城(小泉館)なとなくの復元図。
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城の構造
小泉館の「五領」という地名は御領と解する事ができ、城館に関する地名と考えられる。城の地形は、東の山塊から伸びた尾根上にあり、両端は切岸のようになっている程度。城っぽい立地にあるだけ。
耕地整理される以前、確認できた明確な遺構は北側の高土塁のみ。古文書には「築地」とある。高さ3mくらいだったかな。記憶ではやたら高かった。祠がありました。水神様。現在は土塁が無いので、そこより少し南の平地に移設されていた。 高い土塁は、東に向かうと段々低くなって、低い土塁痕になる。途中に途切れた箇所があり、ここが虎口だったという。本当か?発掘調査では、ここに門柱跡などは検出されなかったという。
図面を描いた2020年の時点では、ここに城館があった事はほとんど分からない風景であった。若干の段差、周囲の切岸と、北側に「御蔵台」と呼ばれる巨大な土塁。この土塁は発掘調査の結果、遺構として確定だった。他に遺構は薄い、というか無い。 ・写真 小泉城全景昔の航空写真を見ても大体同じくらい。すでに昔からほぼ消滅していた。
土塁のさらに北側に堀跡があったという。昔から堀跡だと伝わっている場所だが、私が見た時は畑で完全に埋まっていた。ここは昔から雨が降ると水が溜まりやすいようで、堀の名残を示していたという。 そして、そこに腰曲輪と帯曲輪のような地形がある。これも遺構としてOKでしょう。
発掘調査の結果。 2021年の発掘調査で判明した事。
・中世の溝が発見された。これは城でいうところの堀とされる。実際に発掘現場を見ました。細い堀でした。 小泉城 発掘された堀の写真
・北側の土塁の切れ目が虎口だという。 ここ、本当に虎口なのか?発掘調査の結果、下の堀に土橋跡は無かったというし、門柱跡も無かったという。
これらを総合すると、高土塁は主郭の北辺であった。
その東は少し高台で堀を隔てて東郭があった。
主郭の西はほぼ同じ高さで西郭があったという。
写真 主郭と西曲輪、右手に高土塁。
こんな構造だったなんて、発掘調査をやらなきゃ分からなかった。 いや〜、すばらしい報告ですね。全部じゃないけど、発掘調査のおかげで小泉館の大体の形が分かりましたよ。 でも壊した。
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城に関する歴史、伝承など
ネット上の情報や書籍を読んでも、小泉館に関する情報が少ない。 以下に小泉城(小泉館)に関する諸々を書き記しておきます。
・古文書によると、小泉城(小泉館)は館の跡なので「堀之内」という。
・高土塁の上には高尾大明神(現在の水神様か)と、地主大権現の2社が祀られてあったという。そして、この土塁の北側には常に水があり、これが伝承にいう堀の跡である。そこには鮒や鯲がいたが、片目が潰れ、田螺は左巻き(通常は右巻き)だったという。これら生物が異常であるという記述は、小泉城の落城劇を示していると考えられる。落城によくある話である。現代は、堀は埋められて畑となっていた。
・弁財天の上に矢築場という塚がある。これは小泉殿の矢場の跡と伝わる。
・仲原八幡は小泉殿の鎮守という。
・ある書籍によると、「平石家系図」に祖母井国胤が小泉を領したとある、という。この系図を拝見したが、諸家系図の情報なので鵜呑みにする事はできない。
・小泉家臣の家 小泉家臣の鈴木家、関家、鷹箸家について。小泉城落城ののち周辺地域に土着した。
・鈴木家は新田に移り、惣兵衛と名乗った。墓所は元禄の頃に分からなくなったという。
・関家は、小田毛に土着して七右衛門と名乗った。墓地は釜場の入口あたりにあったが、宝暦の頃には場所不明となった。
・鷹箸家は長峰に移り彦四郎と名乗る。のちに高橋。墓所はいずれかの代に不明となった。
・阿弥陀堂 小泉城の西にある阿弥陀堂は小泉家の御廟と伝わる。榎の木が墓標だと伝わる。玉蔵院。若干だが高台になっている。現在は墓地で、五輪塔や石仏が散見される。周囲は少し土塁が盛られているが、区画のために盛ったのだろう。城の遺構ではないと思う。 天正13年(1585年)田野城の合戦の影響で小泉城が落城した年の7月、小泉城主の奥方が新盆の供養をしたので、地名を新房という伝承が伝わる。
・阿弥陀堂 写真・阿弥陀堂の五輪塔など 写真
・三宮神社 小泉城の南西に位置する。小泉家の崇拝ありとされる。別当玉蔵院宥泉法印の代に虚空蔵となる。ちなみに玉蔵院は阿弥陀堂の場所にあった。虚空蔵は江戸時代になり、京都の吉田家より許を得て正一位三宮大権現に改称、村の鎮守社となった。虚空蔵菩薩像は別に新堂を建てて本地堂と号す。
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まとめ、
前の調査で確認できた明確な遺構は、北側の高い土塁のみだった。現在は消滅しており、城の痕跡をうかがうことはできない。御蔵台や堀の内という地名によって城があったと推測できる程度である。 あとは、北側のお宅が城の切岸のような土地に建っている程度か。
これから全国の史跡はどんどん壊されていくだろう。 そうなる前に、なるべく多くの史跡を記録しておきたい。
耕地整理、おそるべし。
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