河原田合戦 概論


日時

15231110

場所

皆川領 河原田(現・栃木県都賀町)

対戦

宇都宮忠綱

皆川宗成

兵力

1800余騎

700

勝敗

×

援軍

なし

結城、小山家
1800

結果

退却

当主・宗成討死



 実は、河原田合戦は、年号が分かっていない。ここでは1523年に仮定する。宇都宮家と皆川家の合戦は、数度行われている可能性があるが、この項では皆川宗成が討死した時の合戦を論ずる。

 上の対戦表にある宇都宮家の兵力は、「皆川正中録」にある数字なので、あてにできない。1800騎は、馬上でなく兵士1800人という事だろう。皆川方の兵数は記されていないが、存亡の危機なので全兵力のほとんどを注いだと仮定し、兵700と仮定した。

 以下、「皆川正中録」を分かりやすいように訳した。


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「河原田合戦之事」

・出陣。

 先年、鹿沼を治めた宇都宮忠綱は、しばらく兵馬を休め、この間に日光山御伸領の大半を意のままに私領とした。
 宇都宮忠綱は、大永3年(1523年)11月、鹿沼加園城の渡辺右衛門尉へ押し寄せ、和沢備後守を使者として城中に遣わし「小山家はますます都賀郡を支配しようとしている。これは許せないので鹿沼右衛門に掛け合ったが、反抗してきたので先月28日に討ち、所領を取り上げた。貴殿も宇都宮忠綱に旗下になり働く事こそ然るべし」と威嚇した。
 渡辺家中で評定の結果、大敵に抗する事は無理なので、宇都宮家の意に従った。この頃、加園の薬師寺が再建されたが、宇都宮家の支配の印として、その棟札に、印し置かれた。
 そして南摩へ押し寄せ、これも旗下に置いた。南摩舎人之助の城を根城として是等の人数合わせて1800余騎は、皆川を攻めようと粕尾、粟野をはじめ、久野、深程を押領し、真名子、大柿を掠めて皆川に押し寄せた。

 皆川家中がこれを聞くと、「こたびこそ小山家へ心身を以って返報の時がきた」と、小山下野守へ急使を走らせ、「もし宇都宮忠綱が攻め寄せれば、壬生家は壬生口を堅く守り、貴殿(小山下野守)は諸勢を催して鹿沼へ陣取って背後を脅かし、榎本大隈は南を塞いで(宇都宮軍を)挟み撃ちにすれば、嚢中の鼠を討つに等しい」として、皆川宗成と、嫡子・成勝は共に深沢峠を越えて河原田に出陣した。
 宇都宮忠綱は鹿沼を討ち取り、加園、南摩を降して勢いに乗り、1110日に南摩の城を発し、旗鼓堂々、河原田に押し寄せた。



・激突。

 皆川勢も鬨の声を上げ、ここが勝敗の決するところと屈強の射手を選び、矢種尽くせと射撃したが、矢軍が終わらぬうちに皆川勢より宇塚兵吉郎、松永太郎次、山本文蔵、斎藤蔵之助、石川文六、近藤五郎、植竹孫七郎、風間平八、遠藤与太郎、山口縫之助、飛騨文次郎、今泉重助等の面々450騎ばかり真正面より進み出て切り立てたので、寄手も入り乱れて火花を散らした。
 この合戦の中、小山、結城の加勢も皆川方に追々加わり、今は2500騎。鹿沼へ押し寄せ、城番の者を追い散らして城を乗っ取り、黒川筋を厳重に守らせ、また大芦川一帯を塞ぎ、加園、南摩を乗っ取ろうとしていた。



・形勢逆転。

 これを渡辺右衛門尉は、加園城番の者より聞き、右衛門尉は小山へ翻った。南摩の城は小山勢300騎で守備にあたった。
 欺かれているとは知らぬ宇都宮勢は、万一、皆川が順常に降参せねば討ち取れと攻めかかり、互いに力を尽くして戦ううちに日も暮れ果て、双方戦い疲れて退いた。
 宇都宮勢はおよそ56程退いて陣を取り篝火をたいていたが、南摩よりの急使が来て、小山より23千の軍勢が来て鹿沼を乗っ取り、加園城もすでに敵の手中に落ちているとの報を聞いた。
 宇都宮忠綱は案に相違し、陣中は俄に狼狽した。これが皆川の計略であった。明日こそ皆川を討ち取り、城を乗っ取り、その後に鹿沼を取り返そうとしたが、周防守(逆面周防守)進み出て、「小山家が既に鹿沼城を乗っ取っている今では、背後より攻められるのは必定。これに対する用意をするべし」と言上した。
 これにより、富張から深沢口に300余騎、西方口にも同じく300余騎を差し向け、不慮に備え、残った総勢一度に押し寄せ、皆川父子を討ち取ろうと評議が決した。


・宇都宮勢の撤退。

 明け七つ(午前3時〜5時)を待っていると、一同疲れ果て、眠気を催し篝火も衰えて陣中静まっている所へ、小山勢500騎が宇都宮の陣所間近で鬨の声を上げて押し寄せてきたので、宇都宮勢は周章狼狽した。

 折から皆川父子、大谷大膳、氏家三河守を真っ先に立てて押し寄せた。これに対し宇都宮勢も、江島大内蔵、上山右衛門、金沢兵庫、大関修理、石川長助、綱川右近、田向大膳、岡本美濃守等勇士の者ら旗下を励まして戦うが、夜も明けた頃、壬生の軍勢も300余騎馳せ参じ、皆川父子は無二無三に宇都宮忠綱の首を取ろうと深入りしたが、どこからか来た流矢が宗成の兜の吹き返しより錣(しころ)まで貫いたので、強気の宗成も目眩んで落馬した。侍供が駆けつけ、これを抱きとめ陣中に守護したが、遂に絶命した。

 宇都宮方では、今泉兵部、中里左京、矢口筑前、岡本美濃守等が忠綱の前に進み出て「此度の戦は一手も勝算無し。一方の血路を開き、お落ちくだされ」と言上し、宇都宮勢を一手に集めてしばらく一方を切り開いて落ちてゆくのを宗成嫡子・成勝が追いかけ、壬生勢も栃木玄蕃と共に合力して迫り、小山勢は西方侍の案内により横合いより踊り出て、宇都宮勢は今は四面楚歌。散々に討ち果たされ、忠綱も引田の松坂越よりようやく宇都宮へ帰城した。この合戦で宇都宮方は勇士雑兵250人、皆川方は37人、小山家13人、壬生家10人の戦死者を出した。



・戦後。

 宇都宮忠綱は、このような敗軍の恥辱に逢ったのは、日光御神領を侵した神罰だと考え、その後鹿沼には些の敵意も持たず、神祗を尊び人徳の名将となった。南摩舎人之助は後にその身を恥じていずこともなく立ち去ったという。

 小山家は、皆川家の計略によって六十六郷(鹿沼六十六郷?)の所領を増やして喜ぶこと限りなく、皆川の城に付く30ヶ村を、宗成の子・成勝に与え、壬生家の所領を鹿沼に贈り替えて、これまでの壬生領を小山領とした。これにより壬生家は天文の頃、鹿沼城を築いた時に日光三社を城の鎮守として重く祭り、日光神領惣政所の棟札を収めた。皆川家は此度の軍功で58ヶ村を所領とした。
 しかし、小山家は神領をそのまま返し奉らず、やがてその身に神罰を蒙って一家断絶の悲運にあう事になる。

(巻之一)

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 以上が「皆川正中録」にある記述である。兵数や合戦の詳細などは物語であって、ほとんどが史実ではない。参陣した武将の名や、討ち死にした人数もおおよそであろう。これは皆川方の資料なので、宇都宮勢が大敗したストーリで書かれている。


 史実は、皆川方では当主の宗成と、その弟の平川成明が討ち死にしている。平川成明は宇都宮の大軍に恐れず、前哨の平川城(河原田の東側)にて戦って討ち死にした。
 その他、多くの兵が討ち死にし、宇都宮勢の絶対優勢のまま支城も落とされて滅亡まであと一歩まで来た所で、小山、結城の援軍により助けられた。 また、壬生家も宇都宮勢を攻撃したという。この時の当主は壬生綱房。壬生綱重が死去したばかりである。さらに鹿沼地方の加園城、南摩城を取られたのは宇都宮勢の思いもしない災難だっただろう。
 敵軍に囲まれた宇都宮勢も痛手を蒙ったであろうが、皆川勢ほどの大打撃は受けていないと思われる。
 これにより皆川成勝が当主となり、徐々に勢力を回復させてゆく。
 
 また、戦後の小山家による領地の配分など嘘であろう。この頃、小山家は凋落の一途を辿っている。小山支族である皆川の領地配分ならいざ知らず、壬生家に鹿沼を与えて、旧壬生領を小山領にするなどできるはずがない。対して壬生家はこの頃、領内は磐石を築きつつあった。しかし、両家の間で多少の領地分配についての合意はあった可能性はある。

 河原田合戦跡は、現・栃木県都賀町に「合戦場」として名が残る。



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