城峰城 じょうみねじょう

(栃木県芳賀郡茂木町)

 

 

 

 

 

城峰城は茂木町大字鮎田字城峰にある。

 

この城名はおかしい。戦国時代に、城峰城なんて呼ぶはずがない。城のある山だから後世に城峰と呼ばれたのだろう。それをそのまま城名にするなんて…。頭おかしい。

しかし、現代では城峰城で史跡登録されているから仕方ない。登録する時に、おかしいと思わなかったのか?このような例は間々ありますね。

 鮎田にあるから、鮎田城?いや、他に城がみつかったら面倒なことになる。

 

 

別名、「和久城」というらしい。和久兵部が築城したとの伝承がある。

うん、これだね。

城峰城(和久城)は南北朝時代の伝承が残る。延4年(1359年)結城家と戦って廃城になったという。結城家か白河家か。南北朝時代のことだから、いくつもの大名家が従軍していたのでしょう。その中の一軍である結城軍が城峰城(和久城)を攻めたのだと思います。

 

 

 

 

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城峰城(和久城)縄張図

栃木県芳賀郡茂木町大字鮎田字城峰

 

 

 

 

南北朝時代の城なので簡易的な城だといわれている。縄張図は1日で終わるかなと思ったら、全然描き終わりませんでした。思ったより広い。

 曲輪がグルグルまわっているので描くのに時間がかかった。あと、ささやかな段々が多すぎ。各尾根を調べるのも時間がかかりました。

 

麓の地名は堀之内ではない。

城峰の麓は「向田」です。

堀之内は、城峰から南西に行ったところに「堀之内集会所」と「大山神社」があります。間違わないようにご注意を。

 

 

 

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城の構造について

 

 城峰城は2箇所に分かれている。

1つは城峰の山上に築かれた、今まで知られている本城。

2つ目は北西の尾根先にある出城。これは、アオ様のHP「北緯36度付近の中世城郭」を拝見して登城した。この方面にも城があったんですね。城峰城からは東の尾根を迂回して行きます。

 

 

 

・城峰城

 既存の城峰城で、両城の範囲で考えれば本城ともいえるだろうか。

 一番上というか、中心に主郭を置き、その周囲に帯曲輪を3段くらいめぐらす。何箇所か入口のような部分があるが、これは後世の作り物なのか不明です。一応、図面には描きました。

 主郭の南側に二重堀切がある。かなり小規模。

 それ以外の各尾根上には堀なし。段だけだべ。

北側には低い土塁を持った曲輪がある。あと、竪堀あり。

 

 

 

 さて、東の尾根先から迂回して、北西の出城に行きましょう。道のりは段差のみで堀無し、尾根を下がったり登ったり。で、出城に着きました。

 

 

 

 

 

・北西の出城

 これは南北朝時代から存在していたのか分からない。戦国時代に城峰の北西を補佐するために増設したのかもしれない。城の広さだけで言えば、本城の城峰城とほとんど同じ規模です。

 城の東に堀切を配して背後の山と区切っている。はっきりしない主郭の周囲に、段々曲輪を同心円状に無数に配置。縄張図を描くといやになるほど。しかもはっきりしない段差。

 これは難しい。

 

 

 

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まとめ

 

城峰城は尾根が周囲に広がっているにも関わらず、堀切が南の1方向にしかない。あとはよく分からない段々があるだけ。これは戦国時代に使用されていなかったのだろうか。やはり伝承通り南北朝時代に廃城か?

 物見程度に使用されていた可能性はある。

 

北西の出城は堀の規模が大きい。両側が竪堀になっている。

前面に川があり、要害の地ではある。また、延々と段々をめぐらしている。戦国時代に使用されたような気がする。

城峰の死角である北西をカバ―しているので、両城は同時代に使用されていたと考えられますが、皆さんはいかが思われますか。

 

目立つ山なので集落の避難所ではないと思う。

 

 以上、城峰城(和久城)+北西の出城でした。

 

 

 

 アオ様のHPによると、城峰城のもう少し北東に、別の城が発見されたという。こんな近距離に城があったなんて。

 そちらにも行ってみたい。

 

 

 

 

 

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