和泉城(日光市)

 

 

 

 

 

和泉城は日光市和泉にある小規模の山城で、201635日時点で行った調査の結果、山上に主郭、帯曲輪、堀切、虎口など ・・・のようなものが残る。

 

 

注意・これは城でないかもしれません。

 

 

当城は書籍「日本城郭体系」に掲載されている。巻末にある、その他の城跡の一覧に名前があり、簡単に一行の文で解説されているのみで詳細不明である。そこには、土塁あり、見張り番所か狼煙台の山城か、とのこと。これだけじゃ分からない。

また、その出典として、昭和49年度「栃木県高校社会科研究紀要」の中で、「篠井城、竹林城、和泉の城山についての覚書」という論文が挙げられている。確かにこの3城には共通点がありますが、何が論じられているのか不明です。しかし、県立図書館にも置いておらず、調査することができなかった。図面にされているのかな。これも分からない。どこかに置いてないかなー。

どうしようもないので、現地に行って聞き込み調査からはじめました。城跡は、日光市和泉の城山(ジョウヤマ)にあるという情報だけ。ネットでも、和泉城の情報や、ジョウヤマの字名は発見できず苦労しました。

 

その山を探すのに2時間。めちゃ疲れた。2軒のお宅にお邪魔して、城跡を聞いて。地元の方は、和泉城があることはご存知でした。でも城についての詳細はご存じない。城に近いお宅で「ジョウヤマ」の所在を教えていただいて、いざ山へ。

 

 

山を登る。取りつくと簡単な山。なだらかな丘を登るように進んでいきます。別に疲れもせずに山頂に着きました。

 

すると、遺構がありました。

うっすらと。いや、なかなか残っているほうかな。

 

本当にここかなと思い、隣の山など探索しましたが、周囲には遺構無し。

なので、ここが和泉城と確信いたしました。情報が無いと遺構の位置確認に時間がかかって大変なことが分かりました。図面を描く前にぐったり。

 

 

和泉城 図面

 

遺構は薄いが、城のように書いてみると、このような感じ。

とにかく薄っすら。 

 

和泉城は城の位置から考えて中世日光山の築いた砦と思われる。

 

図面完了。

 

上方が北。方角や長さに若干の誤差があると思う。

 

周囲はなかなかしっかりとした切岸で囲まれている。主郭の南半分以上は点線で書いた方が正しい。また、軽い食い違い虎口が2か所に見られる。

 

はっきりとした土塁がありません!

書籍の記述は・・・。切岸のことを土塁といっているのだろうか。

 

地元で「城山(ジョウヤマ)」とよばれる山上にあり、主郭はややゆがんだ長方形で約60×30m。

主郭全景

 

その周囲にうっすらと一段下がる区画が帯曲輪のように配置される。そして、その下には明瞭な帯曲輪(横堀?)が配置されている。これは所々、堀のような凹んだ部分もある。しかし、これが土塁を備えた帯曲輪なのか、堀なのかは判断できない。

よって、二段構造の主郭の周囲に曲輪(横堀?)がめぐる造りと解釈できる。

 

 主郭の東に、食い違い虎口がある。図@

 

@ 東の山からの侵入をガッチリ阻止。

 

 この入口は技巧的で、右へ、左へ、右へ、左へ。進むたびにこのような構造がある(と、私には見えた)。

 

東側の虎口

 

一番外郭に曲輪(堀か?)を配置して守りを固めている。東側は防御意思が明確。

東の曲輪

 

この東にはなだらかなもう一つのピークがあるため、その方面からの攻撃を防御しようとしたのだろう。

 

 

 

 主郭の北西には凸凹した侵入路がある。図A

A

 こちらも上のほうは食い違いになっており、虎口のようにも見える。その下は小規模な段々となっており、途中で消える。

 

 進路は、おそらく図Aの赤線のように進んだであろう。下に行くと、西のもう一つの尾根に移り、そこから山の下へ降りると思われる。下から登る獣道のようなものもある。

 

 

 

北西入口

 

こちらは急な尾根を降りるような造りになっている。そして、この下には麓まで下る急な道が付いている。

 

 

 

主要部分は以上であるが、防御施設として西側の尾根を下った所に堀切がある。図B

B

 堀切は高さ約1m、横に約4m。その両側は斜めに山下へ下って消滅している。竪堀にはなっていない。

堀切

 

この上には主要部分の切岸?が侵入を阻む。現在は林道のようなものが軽く通っているが、往時は切岸であろう。切岸の上は少し広く削平されており、敵を迎え撃つ場所だったかもしれない。すると、ここは土塁を備えた曲輪。まあ、堀にもなり、曲輪にもなり、道にもなったんでしょう。曲輪なのか堀なのか、どちらにも使っていたと思れます。現代人が決めた城郭用語に当てはめようとするのはヤボと思いました。

 この周辺はなだらかな自然地形。図面には点線で何やら書いたが、単なる凸凹です。あまりお気になさらずに。

 

 城の南側はなだらかな自然地形で、曲輪の下は何も防御意思が見えない。その下もただ山を下っていくだけ。ほんとに大丈夫なの?と思ってしまう。後世の改変もあるので、これ以上は分からないが、山の下まで探ったが、別に改変の様子無し。で、遺構も無し。

 

 北から北東にかけて麓に高速道路が通るが、山上の遺構は破壊されていない。また、大きく崩落した箇所が数か所あるので見学の際は注意していただきたい。

 

 

総括

 城は北側に向かって築かれており、西と東は防御施設が配される。しかし、当城の規模では戦闘は行えないので、日光山の砦かなと思います。小規模だけど、しっかりした食い違いだったな・・・というのが心象的でした。

 で、狼煙台?あの遺構だけ見て狼煙台があったなんて想像できない。いや、主郭はなかなか広いので、狼煙台があったかもしれない。分かりません。

 

 和泉城が築かれた理由としては、見張りと連絡があったと思われる。北東方向に倉ヶ崎城が見える。どこかの山を通して日光山へ、もしくは周囲に連絡していたのだろう。やっぱり狼煙で?

 

 

 

付、竹林城

 なお、和泉城の北東方向の平地に竹林城がある。両城は館と山城の関係ではないだろう。あまりにも離れすぎている。また、倉ヶ崎城と和泉城のほぼ中間地点に位置しているが、連絡の城でもなさそうだ。和泉―倉ヶ崎間で狼煙を上げれば連絡がつく。よって竹林城は、街道筋を押さえる館スタイルの城であろう。日光山配下の土豪か代官屋敷跡と思われる。

 

 

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