新説!猪倉城の築城者




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 猪倉城(現・日光市猪倉)の築城者は不明のはずが、俗説では、正応年間(12881293)鹿沼権三郎入道教阿と、大永年間(15211528)鹿沼右衛門の2説があるとされる。
 しかし、ここでは違う説を取り上げる。
 玉生系図に、玉生経綱という人物が見える。そこに猪倉城の築城由来が書かれているので紹介する。


玉生経綱
 七郎。宇都宮泰綱の6男。玉生綱家の養子となる。妻は北条義時の次男・重時の娘。
 玉生家は玉生に拠った在地勢力で、その出自は系図によれば藤原系。のちに塩谷家から養子を迎えて、そののちに宇都宮泰綱の6男を養子に迎えた。

 玉生経綱は、弘安41281)辛巳年の蒙古襲来時に宇都宮貞綱に従い九州へ向かった。宇都宮軍は蒙古が去った後も数ヶ月間警護を引き受け、経綱はその時の功により弘安5年(12828月、河内郡のうち猪ノ倉、久田嶋、小池、石那田郷を賜った。
 経綱は正応21289)己丑年猪ノ倉山に新城を築き、次郎兵衛経家が居城したという。
 次郎兵衛経家とは、玉生経綱の次男・経家(次郎兵衛尉)である。



 経綱が賜った河内郡猪ノ倉とは、他の賜った郷村を考えれば、おそらく猪倉(日光市)であろう。小池、石那田郷は宇都宮市内に比定できる。久田嶋は不明であるが、付近を見れば木和田島(日光市)がある。一応、そこに比定しておこう。すると、この4郷は隣り合っている。賜った郷村としては妥当であろう。
 そして、新城を築いた「猪ノ倉山」といえば、やはり泉福寺(日光市猪倉)裏山の猪倉城跡と見てよいだろう。そして、猪倉城は次男の玉生経家が居城した。
 玉生系図をすべて信じるわけではないが、これはとても重要な記述であり、これまでの猪倉城の築城説とは全く異なる。


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 猪倉城跡に立っている案内板によると、
「築城者は正応年間(12881293)鹿沼権三郎入道教阿と大永年間(1521 1528)鹿沼右衛門の2説がある。」と書かれてある。
 このように、鹿沼地方にいたとされる「鹿沼権三郎入道教阿」によって築城された説が通説となっている。そして、日光方面とも連携した城などという話もちらほら聞く。一体何を根拠に、こんな説が一般に流布しているのであろうか。
 鹿沼権三郎入道教阿は正応5年(1292)に日光山へ燈篭を寄進した人物であるが、それ以外の事は不明。どのくらいの勢力を持っていたか、はたまた武家勢力かどうかも分からない。それ以降、戦国時代まで歴史舞台に出てこない。この人物は日光山を支配して猪倉の方までも勢力下に治めていたとも言われているが、そんな大勢力ならば歴史に残っているだろうに。

 玉生家によって成された猪倉城築城は正応年間であるし、鹿沼権三郎入道教阿の存在時期と全く同時期である。教阿による築城は史料の裏づけが全く取れないのに対して、玉生家による築城は系図の由来によって明らかである。

 よって、猪倉城築城に関しては、

「正応21289)己丑年、玉生経綱によって築城される。そして、そ の次男・次郎兵衛尉経家が居城とした。」

と説明したほうが妥当であろう。当然、宇都宮家の勢力である。猪倉城の案内板を代えてほしい。


 また、玉生経綱の曾孫・玉生綱昌は康暦2年(1380年)宇都宮基綱と小山義政の合戦で功あり、都賀郡の村を賜っている。都賀郡のどこを貰ったのかは不明。しかし、この戦は宇都宮基綱が討ち死にするなどの宇都宮軍の大敗であり、褒美を貰うどころではないだろうが、系図に注記があるので紹介する。都賀郡で小山家の失領を獲得したとすれば、鹿沼〜壬生〜栃木地方だろうか。

 すると、戦国時代にいた神山右衛門尉や、鹿沼教清が玉生家の末裔?はたまた壬生家は玉生家の庶流?などの妄想が出てくるが、ここでは史料の裏づけは全くとれないので、やめておく。


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