橋本城 はしもとじょう

(茨城県桜川市上城)

 

 

 

 

スバラシイ城を拝見。

桜川市の岩瀬地方では有名な橋本城に行ってきました。

この地域では大きい規模で、遺構もよく残る。これは面白い。

 

 

橋本城は茨城県桜川市にある。比較的、訪問者も多い。

戦国時代、益子家と笠間家の紛争の地となったことで有名。他に、結城家や太田資正らも出張ってきている。岩瀬地方はめちゃくちゃだった。

 

関八州古戦録にも合戦の様子が克明に描かれているが、作者の創作も過分に含まれている。だが、読物としては面白い。

 

城の説明については、書籍やネット上にあふれているので、このページでは必要な事だけ記す。

 

 

1、縄張図を描くのが難しい

2、城域について

3、城の構造について

4、まとめ

 

 

 

 

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1、縄張図を描くのが難しい

橋本城を描くのはとっても難しい。現在、いくつかの縄張図が見られるが、描く人によって大分違う。これは広い城域、高低差、藪が多いなどが理由だろうか。非常に難しい。特に、二つの尾根が麓で合流するため、測量で合わせるのが大変。

 

 完璧に描けたわけではないが、なかなか描くことができたと思う。防御施設の形状、切岸や堀などの高低差の表現、描く所がたくさんあり過ぎて大変でした。諸先輩方の御苦労が分かりました。しかしこれが楽しい。現在の技量ではこれが精いっぱい。

 東側のグダグダ曲輪を描くのがツライ。自分が今どこにいるのか分からなくなる。ここは混乱した。

 

 

 

 

橋本城 縄張図

茨城県桜川市上城

 

 

 

 

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2、城域について

 これも見る人によって意見が違う。これはあくまで私見である。

 

北側 爪黒神社方面

城の北にある爪黒神社から入る登城道が一番行きやすい。ここから山道が城まで伸びている。これが横堀だと言う方がいるが、これはどう見てもただの山道。山中には幾筋の山道がある。戦国時代もこんな感じだったかは分からない。このうち、どこかの道が使われていた可能性はある。

城域は、大きい土塁があったり、竪堀がある場所あたりからでしょう。それより北側は城外だと思います。

また、爪黒神社が居館跡という説があるという。

居館跡と言うからには発掘調査などあったのかな…。

 

 

 

北側 もう一つの北尾根

こちらには、最北端に小さい土塁と両竪堀がある。で、少し岩場まじりの小曲輪。これより北が城外。これより先は登城道であろう。爪黒神社から伸びる山道と似ている。橋本城の登城道って、こんな感じなんだろうか。城に近づくと大堀切がある。

 

 

 

南西方面

南西の古墳方面は城外である。古墳の凹凸が続くが、城としての機能は無い。その先は山に登ってゆくが、採石所の作業場で巨石が積んであって侵入不可。昔ならば、もっと上に行けば尾根伝いに雨引山城に至ったはずだ。

主郭南の巨大な堀、土塁は立派なもので、城の外郭を完全に固めている。絶対に守るぞという強い意志が見える。ここより南西は平坦な細尾根があって古墳に続く。この平坦な細尾根は城兵が少しは繰り出した可能性もあるが、あまり防衛線を広げても守れないので、城域とは考えにくい。

 

 この途中に、下から山仕事のために登ってくる道がある。下ってゆくと細尾根があって少々の段々がある。縄張図には一応描いた。ここに多少だが在番を置いていたのだろうか…。それとも、ただの山仕事の作業場だろうか。

 

 

 

東方面

東側は遺構がはっきりしない部分が多い。なだらかに下って、だだっ広い斜面となっている。城域としては、東の太い土塁や、はっきりしない段々の曲輪あたりまでか。なだらかな東側の尾根上はあまり守る意志が見られない。と言っても、それ以上に下ってゆくと、けっこう急だが。

城内に入ると、はっきりしない遺構といっても、相当な高低差によって寄せ手は苦労しただろう。私も東から登ったら、すごく疲れた。

 

 

 

西方面

西は谷地で採石所がある。城からは遠目に重機が見える。

城から伸びるたくさんの尾根上には、それぞれ小さい曲輪、堀切などがあり厳重に守っている。現在は北からの登城道がよく知られているが、西からの侵入も堀を設けて警戒していた。

 

 

 

 

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3、城の構造について

 

 城の構造については、色々なサイト様や書籍で紹介されているので、ここでは気になった点だけ紹介させていただく。

 

 

主郭の虎口。

主郭に上がる道はいくつかある。特筆すべきは虎口は東だろうか。そこは屈折して入り、脇に攻撃できそうな張り出しがある。

南にも虎口がある。

 

 

 

 

主郭の北下には面白い構造がある。

北曲輪から堀を土橋で渡り、桝型?のような構造になっている。上ると主郭直下で主郭への入口がある。これが主郭北側の入口となっているが、これは後世の造りものか不明。主郭直下に出てすぐ登れるわけがない。おそらく、敵は東側に回って、主郭東に虎口があったに違いない。

 

 

 

 

南側の堀と土塁。

そこから西に下りながら堀になる。

この辺の堀と土塁の規模がとても素晴らしいのだが、私の縄張図に描いたのはイマイチ。もっとよく表現できればよかったのだが、今の私の技量じゃこれが限界だった。

 

 

 

 

北側の大堀切。

上の曲輪との落差が大きい。

しかも、こちらには行きづらい。通行が困難なのである。上の曲輪に容易に行かせないような構造だと実感した。

 

 

 

 

橋本城の一番、下位の曲輪。

これは北東側、城の入り口にそびえる城壁。

橋本城に入るときにほとんどの方が最初に見る城壁である。

これは高さがある。

敵を後方にぐるっと回り込ませて攻撃にさらす構造。

 

 

 

 

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まとめ

 

 岩瀬地方は、笠間家や益子家の争いの場となった地域で、たくさんの城跡が点在している。橋本城は地域の中でも大きい規模の城。

 笠間家の拠点となったり、結城家が城を支配したり、重要な拠点となった。

 

 城内を踏査すると、いろいろな防御施設が詰め込まれていて、中世城郭を十分に楽しめる。規模も大きく、歩き回るし、高低差もあって攻める側の苦労もわかる。

 

 

 南北朝時代の城で有名な中郡城にも比定されている城ですが、これは所在不明で決定打が無い。橋本城の城域は広いが、あまり駐屯できるような城ではないと思う。もしも南北朝時代の城であっても、戦国時代の防御施設に作り変えられていれば踏査では分からない。

 中郡城は、橋本城よりも広いスペースを有する坂戸城のほうがふさわしいように思える。または、高い山で細尾根を利用した羽黒山城、棟峰城あたりだと思う。推測でしかないが。

 

 

 

 

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