羽下城(宇都宮市)
宇都宮市下荒針の羽下にある。羽下館ともいう。 城の前には、北の多気山、南の宇都宮中心部方面に伸びる街道があり、そこへ飯田方面(西)から伸びる街道がぶつかる丁字路を監視する形となっている。
羽下城は、現在は土取りや山の分譲などで改変が激しく、往時の姿はとどめていない。山中にL字型の堀が数基残っている。聞き取り調査によると三段、ないし二段構造の館と推測できる。
宗円塚古墳群のある山の頂上までは使用しておらず、山腹にほぼ長方形の主郭、その下にほぼ同型の二ノ曲輪、その下に三ノ曲輪、または堀が配置してあった。
山上には古墳群の間を縫うように旧日光街道が通っている。人馬の往来があったというが、その下に羽下城があるという構図は、城の存在に疑問を持ってしまう。往時は宗円塚古墳群も城域、もしくは関所のような役割を担っていたのだろうか。
羽下城 縄張図(栃木県宇都宮市)
大体、こんな感じ。細部はまた訪問した時に。改変が激しい。 宗円塚あたりの旧街道は城郭とは関係ないと思います。 後世の道か?もしくは昔から峠道として使用しており、それを監視する館だったか。
主郭「1」あたりの南は、昔はすこ〜し、平らだったとうかがいました。昔っていっても30年くらい前。450年くらい前のことは誰も分かりません。しかも、分譲して段々にならしてしまったので、もう何もわかりません。 ブルドーザーで土取したのはこのあたり「4」で、「2」と同じ高さだったとのこと。 このあたりは「3」、「4」と、その下の、三段に分かれていた。そして、虎口があったという。現在は土取りのため無い。
そして、「3」の建物のところには堀が伸びていた。現在、堀は潰されている。 主郭は「1」と推測されるが、堀を見ると、南の「5」のほうまで明らかに堀が伸びている。しかし、どこまで堀があったかは不明。
現在残る遺構だけ見ていると、わけが分からなくなってくる。
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現代の人からの聞き取り調査なので限界がある。戦国時代当時の姿を完璧に復元することは困難だとご理解いただきたい。一応、このような形であったと…。一応。
あと、書籍「栃木県の中世城館跡」に掲載されている、堀が「乙の字」に残るって、どんな堀だったんだろうか。乙字の堀なんて無かった。たぶん、あのお宅の背後の山腹だろうが、L字の堀なら二つあった。
ここかな?「1」あたり?
改変されてよく分からない構造なので、本の編纂者が見間違えたのか。もしくは、さらに改変されてすでに消えてしまったのか…?
一回目の訪問で写真をほとんど撮らず、忘れてしまった箇所も多いです。もうちょっと手直しします。
総括 宇都宮家本城の多気山城の近くに位置することから、戦闘的な意味で出城ともいわれている。しかし、この規模から考えて、とても戦闘ができるような城ではない。多気山城の補助にもならない。 羽下城は、宇都宮家が多気山に本拠を移す以前から存在し、この地域の土豪の居館であったものだろう。
羽下(はぢた)の地名の由来だが、土砂崩れの「ハチ」と、土地の「タ」を合わせて「はぢた」、もしくは山の端という由来と考えるのが正当だと思うが、八田=羽下という推測を掲載しておく。
・これは伝承的で私の好むところではないが、この地には八田や宇都宮宗円の伝承がよく残っている。地籍図によると、少し離れたところに、神社の字名「八田」がある。
・また、宗円塚は宇都宮初代・藤原宗円の墓、羽下館は宗円の館ともいわれている。
・八田と羽下の読み方は、「はちた」のように読めて似ている。
それ以上の歴史は分からない。
結論、もう一回行かないと図面が完成しない。
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