蒲生家概要
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下野・蒲生家の起こり
全国的に見ると、宮城、山形、滋賀、鹿児島辺りに蒲生姓が多い。栃木県の蒲生姓で初めに見えるのは「蒲生五郎秀成」。現・上三川町の蒲生にいた豪族と推測される。
これに、宇都宮朝綱(3代目)の妾腹の子・秀綱が養子に入り、「蒲生大炊助秀綱」と名乗った。ちなみに妹の八田局は、源義朝と婚姻し、八田知家を生んでいる。
宇都宮系図に、「蒲生五郎秀成」の名があるので、蒲生家は宇都宮朝綱の時代より前から蒲生地域にいた事になる。しかし、蒲生系図には「秀成」の名は無い。
一般に蒲生家は、近江国田原に藤原秀郷が住んで田原藤太と名乗り、その次男・千晴から6代のちの惟俊が陸奥国から出て、近江国蒲生郡を領し蒲生姓を名乗ったのが始まりといわれる。蒲生惟俊の子・蒲生俊賢が源頼朝に仕えたという。
源頼朝の生まれ年は1147年であるから、仕えるとしたら1160年以降だろう。すると、宇都宮朝綱の時代より後になってしまう。下野の蒲生家はもっと前からあるので、近江蒲生(蒲生惟俊、もしくは蒲生俊賢)から出た系統ではない。
宇都宮朝綱 1122年生まれ。
蒲生秀成 1130年頃生まれ?
蒲生秀綱 1170年頃生まれ?
関係があるとしたら、もっと前の時代である。
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ここに二つの仮説をあげる。
まずひとつは、古代に下野を治めていた豊城入彦命〜国造・下毛野氏時代の被官か、現地の豪族であったという説。
下毛野氏など国造は通常は都におり、現地支配は被官や豪族に任せていたから、蒲生家の祖先が昔から下野におり、古代から蒲生地方を治めていた可能性はある。「蒲生」の姓は、「蒲の生える地」から取ったと仮定する。この説ならば、藤原秀郷流とは全く違う系統になる。
これが平安時代まで勢力を保ち、宇都宮家と結びついた可能性は十分にある。
もうひとつの説は、近江国の古代・蒲生稲置の一族が藤原系になる前に、下野に入って下野蒲生の地に根付いたのではないかという説。
源頼義(988年〜1075年)が東北地方攻略のため安倍討伐に乗り出すのは1051年から。苦労の末、1062年に安倍貞任を打倒した(前9年の役)。
頼義の次男・加茂次郎義綱は1058年に右衛門尉に任官。八幡太郎義家の弟、新羅三郎義光の兄である。この加茂義綱から出たというのは可能性が低いが、戦功を挙げた人物に藤原季俊という人物がいる。
藤原季俊は、「陸奥話記」によれば安部貞任の首級を献じ、右馬允の官位を得ている。これが藤原千晴の五代の孫である。
この藤原季俊に蒲生惟俊が養子に入り、蒲生家が続いているのである。だから、蒲生惟俊は巷で言う6代の孫ではなく、蒲生家をくっつけただけの人物と見ゆる。藤原季俊が養父にも関わらず、惟俊は蒲生姓を名乗り、以降、近江国で蒲生氏郷まで続いてゆく。
この辺の事情から、蒲生家は藤原系を名乗ったのではないか。惟俊の先祖は近江の蒲生郡にある蒲生稲置であり、相当の名族である。しかし、古代勢力が生き残るために藤原家の力を借りたのかもしれない。
藤原季俊よりも前の時代に、蒲生が下野に下向した事実は確認していないので、仮説として挙げるのみにとどめる。
ちなみに、藤原宗円もこの役で二荒山での祈願により、奥州平定後、宇都宮を領した。毛野氏から下野国一之宮別当職と宇都宮座主を継いで、宇都宮と姓を変えて戦国期まで続く。藤原季俊と同じ時代を生きている。
くしくも近江の蒲生、下野の毛野、この2氏は藤原姓に取って変わられた。
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平安時代以降の蒲生家。
宇都宮家からの養子「蒲生秀綱」ののち、「蒲生綱郷」に至り、娘は多功朝継と婚姻し、多功朝経を生んでいる。綱郷の跡には、同じく宇都宮一族の横田頼業の4男・「実業」が蒲生家を継いだ。のちに「蒲生秀頼」と改名。
秀頼の子・「秀貞」は安芸守を名乗り、娘を多功景宗と婚姻させている。そして、景宗の弟・景貞を養子に貰い、これが「蒲生景貞」と名乗り、横田家臣として後世に続く。
こうして見ると蒲生姓は、宇都宮一族になり、横田家から養子が入り、多功家との養子、縁組などを経て、横田重臣として存続していく流れになっている。横田家との親密さがうかがえるが、さらに隣接する多功家とも関係の深い事が分かる。
室町時代までは宇都宮家中でこれらの家は、ほとんど「同じ家」の感覚だったのではないか。
そして1380年の茂原の合戦に蒲生秀家が出陣。その後の蒲生家は途絶える。約150年後の戦国時代、突如として「蒲生五郎八信朝」が登場するのである。
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蒲生家のいた地域。
蒲生地域の様子を物語る個人所蔵文書があるので、その蒲生村沿革の大筋を記す。
蒲生の地は、北に黒髪山の嶺が続き、高原山より流れてくる水が所どころに分水して流れている川がある。名を「無ナ瀬川」という。この川の水で耕作をしており、水干の害無く、俗に用水堀と言い伝える。この堀の中に鍋淵と呼ばれる淵があり、ここ水は温かく、色々な草木が生い茂っている。とくに蒲が生い茂っている。これにより現地の人は村名を蒲生と呼んだとも聞く。
また、この地に「蒲生五郎信朝」と名乗る人がいて、天文18年(1549年)宇都宮尚綱が、那須家を攻めよと古河公方晴氏から命を受けた事により、蒲生五郎信朝も出陣する。那須高資と戦い、軍功があったと「宇都宮興廃記」にある。その後、信朝の孫は帰農し、先祖信朝の武具や馬具を土中に埋めて塚を立て、その上に稲荷神社を祭りこの塚を八龍山とした。これより無ナ瀬川の名にちなんで、姓を「猪瀬」と名乗ったと、信朝の記録に見える。
康暦年間(北朝方1379年〜1380年)より蒲生の村名を上と下とに分け、今に続く。この地は土が軽く、五穀種々熟すが、中でも紅花は他とは異なり上品である。また、干瓢を土地の名産とする。
以上が文書の内容である。
蒲生とは水草の蒲(ガマ)が生えている水辺の地域で、水が豊かで耕作に適していたといえよう。また、水運も栄えていただろう。地図を見ても川が多い。
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蒲生神社について。
これは、上蒲生と下蒲生にある。
まず、上蒲生神社について説明する。当社には豊城入命を祭ってある。これは白鷺神社と同じ。
社伝によると、延暦20年(801年)坂上田村麻呂(758〜811年)が蝦夷討伐の時に祈願し、神のお告げによって蒲の穂を背負って戦ったところ大勝をはくしたので、その時より蒲生大明神と称し、地名を蒲生と改めたという。
また、「下野神社沿革誌」に、蒲生神社の事が記されている。わかりづらいので原文は載せずに解説のみする。
ここに書かれている事は、大和朝廷軍の黒坂命(大臣族)による蝦夷征伐の折の記録と見える。すると、時代は崇神天皇の頃。300年頃か?この記述によれば、黒坂命が上三川の神生に来て祠を建てたようだ。
「常陸風土記」によれば、当時、香島郡(茨城県東部〜南部。現・鹿島市辺りだけでなく、さらに広大な地域)に岩に洞窟を掘って住み、獣のように動きのすばやい佐伯という部族がいた。黒坂命が日高見の国から凱旋して、佐伯たちの洞窟に茨を仕掛けたので、中に入れず討ち取られたという。さらに、佐伯は山の佐伯、野の佐伯の2族いて悪事を働いたので、征伐したという話もある。「二賊」というのは、山と野の2族だろう。黒坂命が蝦夷討伐したのち、佐伯が謀反、もしくは悪事のため討伐されたものと思われる。
「日高見」から凱旋してきたというが、これはどこだろう?宮城県の日高見だとすれば、蝦夷討伐は宮城の方面まで進んでいたことになる。
常光富士というのは、佐伯の首領だろうか。
黒坂命は、蝦夷討伐の戦勝祈願がまだ効いていると思ったのか、これを神慮と思い、蒲生に神宮を建てたという。
以上が上蒲生神社の沿革である。
下蒲生の蒲生神社の祭神は大国主命、事大主命、豊城入彦命。本社の創立については明らかでない。蒲生郷を上蒲生と下蒲生に分けたときに、領主か民衆が下蒲生にも同じ蒲生神社を誘置した可能性がある。
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宇都宮家臣帳に見られる蒲生姓。
宇都宮弥三郎旧領高帳(慶長年間作成?)には、蒲生姓と見られる家臣が3人いる。
「蒲生五郎左エ門」「蒲生又七郎」「蒲生(加茂)五郎作」。記載されている箇所は、上三川や落合などの次に書かれている事から、戦国期まで、現・上三川町・蒲生にいたと思われる。
また、蒲生は「加茂」とも呼ばれる。これも同じ意味で、「カモ」とは蒲が生える水辺を表す。
ゆえに宇都宮家臣帳に見られる加茂姓も蒲生家の同族と見てよい。
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江戸以降の壬生旧臣帳に見られる蒲生姓。
江戸時代、嘉永6年(1853年)の壬生家臣帳に「蒲生彦四郎」の名が見える。かなり有力な旧臣である。富田村に住み、法事や集会にことごとく見え、名を連ねている。
また、「蒲生一統」が見られる。場所は河内の上原田村。逆面のすぐ南東にある。ここに蒲生姓の者たちが住まわっていた。「一統」として一括りにされている。
壬生家臣帳にある事から、壬生に仕えていた蒲生であろう。なぜ壬生家に仕えた蒲生がいたかは、重大な仮説がある。
また、後室を格とした壬生旧臣団の活動は、寛文5年(1665年)に伊勢亀が亡くなってからは、壬生官務家の小槻家を中核とした壬生旧臣団に移行していく。その分布範囲は鹿沼、壬生をはじめとして、宇都宮、上三川、薬師寺、塩谷、さらに上野国、常陸国にまで及び、数も増加している。
宇都宮旧臣だけでなく、江戸時代を通じて壬生旧臣たちの活動がされていたのである。
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