下野国概要



下野の地理


下野国は、現・栃木県で、関東地方の北方に位置する。

はじめは上野国とあわせて毛野国(ケヌノクニ)と呼ばれ、栃木県の北部は那須国だったが、『国造本紀』によると、仁徳天皇の時代に渡良瀬川を境に上毛野(カミツケヌ)と下毛野(シモツケヌ)の二国に分かれた。
 大化の改新後、下毛野国に那須国が那須郡として編入されて下野国となった。

 国府は都賀郡(現・栃木市田村町)に置かれ、梁田、足利、安蘇、寒川、芳賀、都賀、河内、塩谷、那須の9郡が置かれた。
 俗に野州とも呼ばれる。

北に那須連峰、西に日光山をはじめとした足尾連山があり、その間を鬼怒川が流れている。渓谷の景色の美しさは筆につくしがたい。南部は関東平野に入っており、遠方まで見える。高台に上ると富士山も見えるほどだ。

西の上野、北の奥羽、東の常陸国境には山岳が連なり、通行はかなり険しい。南に下り、上野の館林、常陸南部、下総と接している河内郡、寒河郡あたりは平地である。

 平安時代は、京の公家たちから、関東は鬼が住んでいるとして恐れられていた。それほど、京からは遠い未開の地という意識があった。
 しかし、武士が台頭してからは、関東武士団は力強く成長し、武家政権の成立に大きく寄与していくこととなる。
 下野も、名だたる名家を排出するに至る。


南関東から通っている奥州街道は宇都宮を通り、交通の重要性は高い。勢力、集落はこの街道沿いから枝状に発展し、なんとなく縦のラインに広がっている。下野の発展ラインは足利―佐野―小山の横ライン(常陸、上野につながる)と宇都宮―小山の縦ライン(南北の武蔵、奥州に抜ける)が主な交通要所である。



戦国期

戦国期も小領主が乱立しており、統一はなかった。主な勢力としては、河内郡、芳賀郡一帯の他、主に下野中心部を宇都宮家。那須郡を那須家。都賀郡北部を壬生家。都賀郡南部を皆川家。下野南部の小山地方を小山家。佐野を佐野家。足利を、管領上杉配下の足利長尾家が支配していた。

室町時代まで勢力を張っていた宇都宮家と小山家は、戦国初期には勢力は減衰していた。他家もそれほど力は無く、ほとんどの場合一進一退、離合集散を繰り返すのみ。突出した勢力は宇都宮家のみであったが、当時は他家を完全に攻め取る風潮の無い時代、下野は統一される見込みは無かったといってよい。

戦国中期になると、近世的性格を多分に備えた北上する新興勢力北条家と、中世的な色彩を持った関東管領上杉憲政のゆずりをうけた上杉輝虎が鋭く対立した狭間になってしまう。

これに刺激を受け現実に土地を握る草分け地主的在地小豪族が互いに内部に矛盾を抱え、対立を激化しながら、上杉家をはじめ、時代の覇者に誼を通じ、主従の関係を結び、あるいは自立を図るなどの離合集散を繰りかえし、戦乱の中に新しい封建的支配関係をつくりながら起こした。

元亀年間になると、北条家が攻め上り、下野南部の領主はこの攻勢に脅かされ下野全体がゆれたが、とくに下野南部領主の打撃はひどかった。小山、佐野家らである。天正年間に入ると、いよいよすさまじく、形ばかりだが、北条家への降伏が相次いだ。

 小田原征伐直前の最大時は、下野では足利長尾、佐野、小山、皆川、壬生、日光山らが北条の傘下に入った。宇都宮領もしばしば侵される。これは下野のほぼ半分に相当する。

 1569年、長年の宿敵だった北条家と上杉家は同盟を結ぶ(越相同盟)。今まで関東管領上杉謙信を頼りに北条と戦ってきた諸氏は大いに落胆し、望みは薄いが、甲斐の武田とも結んだ。ここに至り、北関東の諸氏は反北条連合を作り始める。宇都宮、那須、小山、結城らの「東方之衆」である。これに常陸の佐竹家も協力し、北関東で一大勢力となった。これには北条も一目置いていたという。

それから約10年間、南北の闘争に明け暮れ、織田家の勢力圏が上野まで及ぶと北条は抑えられ、大人しくなるが、天正十年の本能寺の変で信長が斃れると、北条はすぐさま上野に兵を出し、再度、北関東に出兵を開始した。当初は大軍にも耐えうる東方之衆であったが、天正13年頃になり、事態は急迫する。奥州で伊達家の新たな当主・伊達政宗が四方に攻め入り、元来、幾重の婚姻などで結ばれている奥州の諸豪族を攻め始めた。婚姻関係を持つ佐竹家も伊達に対抗するため、南の北条への対応と二手に分かれてしまう。

東方之衆の頼りの佐竹家も、急激に勢力を拡大してきた奥州の伊達政宗に対して兵力を割かねばならず、しかも北条家は伊達家と同盟を結んでいるので、北関東勢は南北から挟み撃ちになる。佐竹家の援軍無くして北関東の弱小諸大名のみで北条家の侵攻を抑えるのはかなり無理がある。大軍である上、統制もきちんとしている。下野南部の大名たちは降伏が相次いだ。
 下野中部の宇都宮家は領内に攻め入られはしたが、それでもなんとか撃退できた。追い返すのにやっとのことであったから、北条を攻めるなどとてもできない。これではじりじり寄せられて滅亡してしまう。永禄年間なら越後の上杉家がいたが、1578年からの御館の乱で衰退してしまった。天正期は、上杉家の関東への影響力が薄れ、北条家の独断場となっていた。そこで北関東では中央で気を吐いているどころか日本全国で並ぶ者なしの関白・豊臣秀吉に頼る他なくなる。

天正18年の秀吉による小田原征伐がなされなければ、下野が北条の分国になるのも、時間の問題であった。

小田原征伐時、秀吉に目通りし、所領を安堵された家は、宇都宮家、多功家、芳賀家、大関家、大田原家、福原家、伊王野家、芦野家、千本家、佐野家、皆川家などなど。茂木家、武茂家、松野家は佐竹に属し所領安堵。

所領没収となった家は、那須家、塩谷家、壬生家、足利長尾家、小山家などである。

那須資晴は参陣せず、宇都宮城に秀吉が来たとき遅れて目通りし、那須十一万石は所領没収となった。のちに那須資晴嫡男・那須資景に五千石があてがわれる。

塩谷義綱は遅陣だが、岡本正親の陰謀とも手違いともいわれる。のちに小所領をもらい、大名に返り咲いた。

皆川広照は小田原城に籠城していたが、途中で手勢と共に抜け出し、秀吉に降伏。所領安堵を取り付けている。

 壬生義雄も小田原城に籠城していたが、陣没してしまう。小田原城開城後、所領安堵しようとするが、子がなかったため壬生は所領没収となった。鹿沼、壬生の大半は結城晴朝の領国となる。

 長尾顕長は小田原に籠城するが、開城後、常陸の佐竹義宣のもとに身を寄せる。

小山秀綱は北条と行動を共にしたというので所領没収となった。


1596年、秀吉政権下18万石を誇る宇都宮家が突如改易となる。豊臣政権下の石田三成派と徳川系東国派の権力争いに巻き込まれたらしい。改易されたときの理由は、2倍もの石高偽りと芳賀高武の反乱による不始末だという。三成らと対立する浅野長政の策謀で宇都宮18万石は没収、替わりに会津の蒲生秀行が入った。

1600年、関ヶ原で決戦が行われているとき、家康にとって最も気がかりなのは、会津の上杉景勝と常陸の佐竹義宣という後方の憂いであった。

 そのため、西上する前にしばらくは江戸のとどまり、結城秀康を中心に東北に対する防備を固めた。万全の体勢をしいたそのうえで関ヶ原に向かった。
 

合戦時は、全体としては活発な動きは無かったが、那須家の北部に上杉勢が進軍し、那須勢が関山に陣取っている上杉勢に強襲をかけ、合戦となった。

 論功行賞では蒲生家を会津に再び転封し、宇都宮には奥平家昌(家康の孫・10万石)、宇都宮とともに軍事価値の高い真岡には、浅野長政の次男・長重を置く。

 小山は本多正純が分地で拝領する。

 翌年1610年(慶長6年)結城秀康を越前67万石に移し、そのあとに譜代の松平一生(板橋へ)を、外様の藤田信吉(西方へ)、壬生には日根野吉明を配する。

 また、佐野城の佐野家、烏山城の成田家、皆川の皆川家、喜連川の喜連川家は本領を安堵する。


江戸のから東北への通り道である下野には、徳川家の信頼厚い大名たちが配され、関ヶ原後の東北計略の拠点と定めたことや、日光山を改修、増築し奉った事は、江戸期以降、下野が大いに発展していく契機となったのである。


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