粟野城 あわのじょう

(栃木県鹿沼市口粟野)

 

 

 

 

鹿沼市の城跡で唯一、指定文化財に指定されているのが粟野城です。

 といっても、旧粟野町の時代に指定されていて、鹿沼市に合併したから鹿沼市の指定文化財としてスライド指定されただけです。

 という事は、昔からの鹿沼市にある城跡は一つも指定されていないのです。私有地が多いですから仕方ありません。

 

 

粟野城は、粟野地方では一番有名な城跡です。地域の中心地に位置し、周辺の城跡と比べても規模が大きい。色々な軍記物にも登場する城で、粟野地方の中心的な城といえるでしょう。

 

 

築城説は諸説あり。平安時代に足利忠綱による築城説や、南北朝時代の平野将監範久による築城など。

南北朝時代以降になると粟野地区は佐野家の色が強い。田沼の佐野家がよくもこんな所まで勢力を伸ばしたのかと半信半疑。宇都宮家、壬生家、皆川家も入り乱れる混戦地域と思われます。

 皆川家が攻め取ったとされるのは、戦国時代の最後の頃です。

 

 

 

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粟野城 縄張図

栃木県鹿沼市口粟野(旧 粟野町)

 

 

通称、城山という。ここは公園化されていて訪れやすい。

冬は寒いが、ここならあまり寒くない。山奥ではないので。

 

 

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城の構造について

  

粟野城は、ピーク257mの山に築かれている。

そこから派生する3つの尾根上に遺構が残る。公園の部分は壊されているが、全体的な城の形状は分かる程度に残っている。

 

3つの尾根のうち、2つは名称がある。

 

 ● 中央の尾根は「男二城(オニじょう)」

 粟野城の尾根上で、一番突き出ている尾根のために「男二城」と呼ばれている。鬼じゃないんですね。

 オニの門ってのがあるけど、男二城への入口という事でしょうか。ここから入ると男二城の途中になっちゃうんだよな。

 

 

 

 

● 東側の尾根は「女二城(ニじょう)」

 「女二城」は、「男二城」よりも短い尾根である。よって、女二城と呼ばれている。男と女って事ですね。昔は意味が分かりませんでしたが、図面を描いてから意味が分かりました。ここに登ると遠くの景色まで見えるが、高所すぎて足がすくむ。その下は細い道と小曲輪が何段か。

 

その東の先には壮大なるスカイローラーがある。すごいぞ。

ここに矢倉跡の伝承があるが遺構なし。破壊されたのかな。ここまで城域に含めると守りきれなそうなので、スカイローラーの場所は物見をするための簡易的な施設があっただけではないか。

 

 

 

 

● 西側の尾根

西側の尾根に名称は無いが、3重の堀切がある。その南の尾根上に遺構は無い。ここまで城域にすると守り切れないと判断したのか、それよりも一歩引いて3重堀切で防御している。

 

 主郭より北西の山岳方面には、堀切、岩などに阻まれ、背後の防御となっている。この山続きには妙見寺があり、その周囲に城郭が二つ存在する。

 

 

 

 

 正玄久保(将監久保)

谷地 家臣団屋敷との伝承がある。

 

 

 

 

 

 

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粟野城 変遷の歴史

 

粟野城は、

文明18年(1486年)城代・平野清範。佐野家か。

 

天正3年(1575年)皆川広勝が取ったとされる。

皆川家の粟野城代・落合徳雲斎

 

 

天正12年(1584年)に佐野家が取り返した。

佐野家の粟野城代・平野丹後守、平野大膳。

 

 

天正13年(1585年)草倉山合戦で皆川家が北条に攻められて劣勢のとき、佐野家が粟野城を奪還したとも。これ以降、皆川は北条方に従属した。

 佐野家の粟野城代(佐野家)城将・平野、神山、岩出ら7将。

 

 

天正14年(1586年)皆川家は粟野城を攻めるが撤退した。

 

 

粟野城が皆川家に取られたのは戦国時代の最後、天正16年(1588年)とされている。皆川家の城代・落合徳雲斎。

 

当時、皆川広照は北条派(佐野氏忠派)とされる。なのになぜ佐野家の粟野城を皆川広照が攻めたかというと。

 

 

戦国時代後期、佐野宗綱が足利長尾家との合戦で討死すると、佐野家臣は2派に分かれ、北条派か佐竹派かで争っていた。結果的に北条家から氏忠を養子に迎えて佐野氏忠が佐野家を継承した。佐竹派の佐野家臣らは一掃され、出奔、反発する者もいた。

これにより、佐野家は北条配下となり、これまでの勢力とはガラリと変わった。

 佐野家居城の唐沢山城から遠い、粟野地方や粕尾、永野などは統制が執れないだろうな。粟野城あたりもおそらく佐野氏忠に反発し、北条派である皆川が粟野城に攻め来たと思われます。

 反抗的だったか、宇都宮勢力になびいたか…、でしょう。

 

 

 

 

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