足尾斎藤家に関する足尾文書
日光市が足尾を調査する過程で、とても重要な新発見の史料が何点も出てきた。「足尾地域歴史資料集(中世)」と「足尾郷土誌」を参考に紹介する。本当にすばらしい発見だと思います。
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関連文書1、徳節斎周長 安堵状について。 元亀2年(1571年)鹿沼の徳節斎周長から領地宛行状あり。 乱の功により、斎藤大蔵丞(斎藤大和守の息子か)と大和守が大蘆郷(鹿沼市西大芦、東大芦)の内から一部所領を賜った。これ、凄い書状発見じゃよ。高村越前守の活躍した、鹿沼市の「引田の乱」に関連しているような気がする。年代は近いと思います。
徳節斎からの安堵状が発給されたのは引田の乱より少し前。元亀2年(1571年)正月10日、斎藤大和守、大蔵丞父子に宛てた書状である。実際の戦はその一月前と思われる。父である斎藤大和守は足尾におり、息子の大蔵丞が戦功を上げて、大蘆郷の中から賜ったと思われる。貰った領地は、徳節斎に反抗して領地を失った伝照庵という人物(寺か修験者か?)の跡地。 この書状は、徳節斎家臣の大門加賀守が届けると共に口上にて詳細を伝えた。 「乱中に、大芦郷でもひと悶着あった」というから、この「乱」は突発的な一合戦だけでは済まず、数か月か数年か長い期間続いていた事がうかがえる。引田の乱もその一つであろう。高村越前守の受領状は、同年の4月9日付けなので、少なくとも乱は半年以上続いている事が分かる。 本では、壬生綱雄の暗殺から続いているのでは?と推測しているが、そこから戦がずーっと続いていたか不明である。壬生綱雄が暗殺された事が原因だとは思います。で、短期的に見れば、日光山側の徳節斎周長と、壬生義雄の対立だと思う。この約1年後、日光山(徳節斎周長)と壬生義雄は佐竹家の仲介により和睦している。おそらく、この辺りの戦の和睦と思われる。
もう一発! 関連文書2、徳節斎周長より、御定め書き8箇条。 徳節斎が、斎藤大和守と、足尾7人のおとな衆に宛てた御定め書きである。これを守るように、と書いてある。徳節斎は日光山の権力者として足尾郷に発布したのだろうか。真意は分からない。 内容は、近年の大堺(場所不明)や乱中(鹿沼市引田あたりか)が続き、十分な仕置きができていないので、この8箇条を守るように。もし守らない者がいたら報告するように、との事です。 で、大堺の場所はというと、もう少し西の鹿沼市上大久保に小字で大堺という場所があると本では推測されている。上大久保の辺りは四方に街道がある。西は大芦郷の奥に行く道で、北に小来川や板荷に抜ける道があり、南には石裂山、久我に抜ける要所である。この辺りで一悶着あったのだろうか。
本の解説によると、足尾にいる7人のおとな衆の上のポジションに斎藤大和守がいる、という構図だそうです。「おとな」というのは、村の中でも上位の人物なので、村を統括するような人物と思われる。それらを斎藤大和守が束ねていたのであろう。すると、斎藤家が数箇所の村を支配していた事になる。それ以上の支配範囲は分からないが、なかなか大きい支配範囲だと思います。 8箇条の内容は、 ・おのおのの田畑、おとな衆の身分は安堵する。 ・喧嘩で人を斬ったら罰銭3貫文。また、斬られたほうも罰銭3貫文。 ・もめ事を隠したら罰銭3貫文。 ・熊皮と犬皮は以前の通り進上せよ。 ・郷中に悪しき者を宿泊させてはならない。 ・他所からの加勢を禁ず。 ・今後、他所からの縁組を禁ず。 ・博打、博奕は固く禁止。
これによって、「乱中」の足尾郷の仕置きをして、徳節斎周長による統治と秩序回復を図っている。 徳節斎周長は不思議な人物だ。苗字を名乗らず僧のような名で、日光山内に力を持とうとしているし。壬生家中や宇都宮家中など武家勢力としても力を持った人物である。聖俗どちらにも身を置いている。
関連文書3、宇都宮家からの書状について。 まだまだある。 天正元年(1573年)宇都宮国綱からの出仕催促状が残る。しかし、これはちょっと要検討かな。国綱の署名の部分があやしい。普通、宇都宮国綱ともなれば苗字書かないし、この記してある国綱の花押は見たことない。「足尾地域歴史資料集」でも同じく解説している。全体的に書体は雰囲気が良いように見えるが、やはりぎこちなさを感じる。 たぶん、江戸時代に斎藤家の伝承を元に作成したものでしょう。でも十分に史実でもあり得る。内容は、ほぼ信じてよいでしょう。 また、豊臣秀吉による文禄元年(1592年)文禄の役では、宇都宮家として出陣したという。 宇都宮配下となった徳節斎を通じて、宇都宮家とも親交があったのだろう。手広い付き合いを示している。
関連文書4、佐野宗綱書状について。 これまた凄い。 佐野宗綱より、桐生又次郎の桐生帰還について尽力してほしいとの要請が斎藤大和守宛てにあった。 佐野と桐生は養子、婚姻のやり取りがあって血縁が深いが、足尾の斎藤家はその事情に少なからず関わっている。ふ〜む色々、新しい事が判明しますね。本によると、丁寧な書き方なので、佐野家臣ではなくて尽力を依頼されている立場だとの事です。 桐生又次郎は、元亀4年(1573年)に由良家にやられて、桐生城を落とされて佐野家に寄食していた。それを桐生城に返り咲かしてやろうとの目論見である。そこで斎藤大和守殿よ、協力してくだされ、という事ですね。 佐野家と桐生家の間柄が、また一つ判明しましたね。
関連文書5、越後上杉家臣・吉江景資感状について。 ふむ、ここまで来ると、なんかもう凄いよ。全国メジャー級の上杉家関連文書があるなんて。 天正年間で、越後上杉家臣・吉江景資、資賢の連署状あり。桐生城は由良家が分捕って黒川谷あたりに砦を構えていたが、その黒川谷を攻撃した斎藤大和守の働きを賞している。足尾のすぐ南が黒川谷(群馬県)で、大和守の働きに、謙信が喜んでいると伝えている。以後もその方面が重要になるので、備えなどについてあとで申し上げる事になります。のちに謙信公から直筆の書が届くと思うのでよろしく!と。 果たして、直筆の書状は斎藤大和守のもとに届いたのでしょうか。
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その他の下野領主へ
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