悪戸城(佐野市)

 

 

 

 

 

 

タイトルは悪戸城となっていますが、

当城は佐野市下彦間町日向の「正光寺城」です。

正光寺館ともいうんでしょうか。館のような遺構が残ります。

 

 

古文書に悪戸城とありまして、どこだろうと考えていて、正光寺城のことかな?と調べていたら・・・

田沼町史の正光寺城の説明にて、悪戸城かもしれない・・・ってことが書いてありました。なんだ、すでに町史で推測してるじゃん。べつに、新見解、新発見になりませんでした。

 

史跡名は正光寺城ですが、文書にはその名は見えません。この辺りを「あくと」というらしい。石灰や土地の悪い点が、悪戸という地名になっているのだろう。

文書には、やたら悪戸城と見えるので、正光寺城を悪戸城として紹介します。確たる証拠はないものの、十中八九、「悪戸城」=「正光寺城」でしょう。

 

 

悪戸城 主郭

左側に土塁。これは横矢です。

 

 

 

悪戸城 図面

 

国土地理院の地図と建物の形が全然違うので、周りの建物消しました。冬になったら書こうかな。どうしようかな。

 

 上が北。

 

城跡は下彦間の大塚山正光寺の裏手、敷地内にあります。すぐそばを彦間川が流れていて、その台地の上に築かれた城です。台地の端っこに館跡のような区画があり、堀、土塁で囲まれています。

これだけです。

 

これは主郭なのか?

それとも砦の端?

誰かの館?    

 

 

これだけじゃ、なんだか分からない。

 

 

昔の彦間川は、図面の黄緑色のラインです。なので、橋も付け替えられました。緑色が昔の橋。方向が全く違いますね。

 

   ←主郭?の、横矢の土塁。

 

 お寺の裏の敷地なので、かなり改変されています。お寺の方も、形はかなり変えてあるだろうねと言ってました。お話を聞くと、寺の外、周囲の土地の形も、彦間川の流れも変わっているとのことです。大体想像できますが、往時はもっと断崖に囲まれた砦で、現在のような、のどかで平坦な地ではないと思います。

 

 

ここは古墳が多い。

大塚山正光寺という山号に見られるように、古墳=大塚なんでしょう。城内がどのような形だったかは全然わからない。

 

しかし、遺構がある場所は良く残っています。ここだけね。

 

夏場の城調査は避けていました。でも我慢できずに行ってしまった。

 

平たくて寺の裏地なので、草も刈ってあると思って行きました。う~ん、まだマシでした。でも、藪がヒドイところはありますよ。藪で方向や形が分からなくなりますが、なんとは見学はできます。

 

   主郭東の竪堀

 

   主郭東の横堀

 

主郭の西側の堀は藪がひどすぎて、写真で見ても分からないのでアップしませんでした。しかし、東側の堀はあまり草がなく、なかなか良い写真が撮れました。

 

ブンブン蚊が多い!シャッターを切ろうとする数秒止まっているだけで刺される!写真撮るのも難しい。

おかげで、常時動き回っていなければならず、とても疲れました。

 

 

 

 

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正光寺には、もう一つ重要な史跡があります。

佐野宗綱公と家臣たちの墓

 

 

 

中央の、長~~~い、とても長い長い長い五輪塔が佐野宗綱公の墓。

周囲は家臣たちの五輪塔とされる。

 

佐野側の古文書によると、佐野宗綱が須花坂で討死したのち、宗綱の首は家臣が人ヶ沢に隠し、のちに唐沢山城に届けた。そして本光寺に葬られたという。そんで、遺骸は正光寺山にて火葬されたという。

老談史などによれば、宗綱の首は長尾側にとられたあと、佐野に送り届けられている。どちらが本当か分かりませんが、いずれにせよ、佐野の本光寺と、彦間の正光寺のどちらでも供養はされていると思います。

 

なので、佐野宗綱が代々の菩提寺である本光寺に葬られていないという通説は間違いだと思います。

 

 

宗綱の首は本光寺に葬られ、遺骸は正光寺にて火葬された。

という古文書の記述を信用することにします。

 

 

って事は、須花坂合戦時に正光寺はすでに彦間に存在していたことになる。

でもここは悪戸城としたら、正光寺は別の場所にあったのじゃろうか。うん、多分そうだと思う。

で、江戸初期頃になって、正光寺が悪戸城の跡(現在の場所)にお引越ししたのではないでしょうか。引っ越してきたといっても、正光寺はすぐ近くにあったと思います。少し山のほうかな。

 

 

 

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正光寺城としての歴史は不明ながら、これを悪戸城と考えれば表舞台に登場する。悪戸城は佐野家の城である。

 

悪戸城の近く、約800m西に須花城がある。彦間における拠点・須花城は、はじめ佐野家によって築かれた。それが戦国時代の永禄元年(1558年)になって須花城の佐野家臣たちは、足利長尾家の配下である名草の南家の元に付いてしまった。

佐野家は仕方なく、それを抑えるために2つの出張城を設けて防備につとめた。それが大網城と悪戸城である。

 

 

大網城と悪戸城の説明を↓。

 

 

大網城。これは有名、すでに知られている。

城主は大網大膳太夫。

張り出した尾根上の堀切で分断された城。藪がひどいらしいですね。眼下には足利の名草方面での峠道が走る。これを監視している。大した遺構ではないと聞いていますが、いかがでしょう。

悪戸城(正光寺)とは地続きなので、連絡、来援はできる。悪戸城、須花城が見下ろせる好位置にある。

冬に登城したいです。早く冬にならないかな。

 

 

悪戸城。城主は多田右馬助。

古文書に2か所記述があり、大永3年(1523年)佐野秀綱によって築城されたという部分と、永禄年間に長尾方の須花城への出張として佐野家が築城したという部分がある。それぞれの頁に書かれていることは、ぜんぜん築城年代が違う。記述が食い違っている。

 

でも、立地から考えると、須花城の出城みたいな地形です。須花城の山や土地から伸びた台地に悪戸城がある。そして、北東側が彦間川で断崖。東側を防御しているように見えます。なのに、ここは須花城を攻めるための砦。

…ここは文書に従っておくか。

大網城とは地続きだから、一応の連絡は取れていたってことで。

 

 

昔の川の流れが全然違う。でも、城の北~東側が川っていうのは変わりません。

 

 

佐野宗綱の討死後、悪戸城は天正13年(1585年)正月16日に名草の長尾勢に攻められた。

佐野家は、城代に大網刑部、川田源内、大抜加賀守、ほか寄騎10騎を置いていた。そこへ長尾勢が火をかけて悪戸城は落城する。2月には閑馬口あたりまで名草領(つまりは長尾領)となってしまった。閑馬口というのは、おそらく閑馬郷の入り口あたりだろうから、大網城も長尾配下に入ったと思われる。彦間は長尾領となった。

天正18年(1590年)に長尾顕長が改易されると、彦間は佐野家を継いだ佐野天徳寺に返還された。

 

歴史はこんな感じです。

 

 

夏場の城跡はつらい!汗びっちょりだったけど楽しかった。

 

 

 

 

 

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